同人誌評・2022年

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「図書新聞」HPの「連載」ページ掲載「同人誌時評」
●「全作家」HP「文芸時評」横尾和博筆        
「全国同人雑誌協会」HP「全国同人雑誌評」    



「西日本新聞」12月28日(水)朝刊「西日本文学展望」茶園梨加氏筆
題「生き方」
出水沢藍子さん「味噌(みそ)味のブルース」(「小説春秋」33号、鹿児島市)、白水百合子さん「馬に乗って花を見る」(「第八期九州文学」580号、福岡市)
齊藤きみ子さん「レジリエンス」(「小説春秋」33号、鹿児島市)、笠置英昭さん「士族の憂国」(「宇佐文学」71号、大分県宇佐市)、青香チエさん「水平線」(「あかね」123号、鹿児島市)

「西日本新聞」11月30日(水)朝刊「西日本文学展望」茶園梨加氏筆
題「つれあい」
和田信子さん「明日どんな日」(「南風」52号、福岡市)、階堂徹さん「花いかだ」(「詩と眞實」881号、熊本市)
波佐間義之さん「タスキ」(「絵合せ」3号、福岡市)、いいだすすむさん「ヒグラシ」(「飄」121号、山口県宇部市)、紺野夏子さん「帰郷」(「南風」52号)
「文学館倶楽部」34号(福岡市文学館)の河野信子さん関連記事より樋脇由利子による追悼文

「西日本新聞」10月31日(月)朝刊「西日本文学展望」茶園梨加氏筆
題「駅」
矢和田高彦さん「駅のホームで」(「文芸山口」365号、山口市)、木下恵美子さん「駅」(「詩と眞實」879号、熊本市)
白石すみほさん「破婚・ママの言い分」(「文芸誌ふたり」28号、佐賀県唐津市)、出町子さん「サンダル」(「詩と眞實」879号)、浜崎勢津子さん「日常からの12章(後編)」(「文芸山口」365号)

「西日本新聞」9月29日(木)朝刊「西日本文学展望」茶園梨加氏筆
題「きょうだい」
伊福満代さん「ハッピーウエディング」(「龍舌蘭」206号、宮崎市)、野沢薫子さん「遠ざかる影」(「長崎文学」100号、長崎市)
西村敏通さん「コーヒーは冷めても」(「飄」120号、山口県宇部市)、岡林稔さんの連載「「龍舌蘭」の旧作〈昭和十六~七年〉を読む」(「龍舌蘭」206号)、「長崎文学」100号より本多和代さん「時のはざまに」・小崎侃さんの表紙

「西日本新聞」8月31日(水)朝刊「西日本文学展望」茶園梨加氏筆
題「文学の不死身」
冒頭、「草茫々通信」を終刊された八田千恵子さんが創刊された季刊誌「散文誌 隣り村」を紹介。
波佐間義之さん「奇形集団」(「九州作家」135号、北九州市)、佐々木信子さん「ヒルガオ」(「第八期九州文学」579号、福岡市)
井本元義さん「虚空山病院」・高岡啓次郎さん「幻聴」(以上「海」第二期28号、福岡市)、紫垣功さん「エラブユリの島」(「詩と眞實」878号、熊本市)

ひわき 2022/07/30 (Sat) 15:21:31
「西日本新聞」7月29日(金)朝刊「西日本文学展望」茶園梨加氏筆
題「過去の克服」
寺井順一さん「予想屋」(「西九州文学」48号、長崎県大村市)、後藤克之さん「あの夏の匂い」(「絵合せ」2号、福岡市)
塩田京加さん「天命愛隣」(「西九州文学」48号)、右田洋一郎さん「メモリーパッチワーク(上)」(「詩と眞實」877号、熊本市)、「ほりわり」(36号、柳川市)より特集「北原白秋没後80年に寄せて」

長崎県の同人誌 - にいな 2022/07/24 (Sun) 12:35:02
長崎新聞7月24日「サンデーぶんか」欄に長崎県の同人誌が紹介されました。総合文芸誌「ら・めえる」84号は、山ぼうし氏の小説「絵里奈の、とあるストリー」。「新たなストーリーの始まりに期待する女性の心情を描いた」と評されている。熊高慧氏の小説「隠れキリシタンの里を離れて」。転校を繰り返す少女の固い決意がすがすがしいの評。「西九州文学」48号は寺井順一氏「予想屋」。競馬ゲームにはまった主人公が描かれてている。ほかに小説は居原木咲子氏の作品など4編。他に詩誌など四つの同人誌が紹介されている。評者は生活文化部の松尾えり子記者。

投稿者:ひわき 投稿日:2022年 6月30日(木)11時45分6秒
「西日本新聞」6月30日(木)朝刊「西日本文学展望」茶園梨加氏筆
題「コロナ禍と戦時下」
冒頭、今月15に亡くなられた森崎和江さんについて記す。
みやまそらねさん「おしゃべりな虹」(「龍舌蘭」205号、宮崎市)、矢和田高彦さん「竹槍」(「文芸山口」363号、山口市)
渡邉眞美さん「ゆらゆら」・鳥海美幸さん「アフロディーテの指先」(「龍舌蘭」205号)、吉田秀夫さん「アメリカの影」(「ら・めえる」84号、長崎市)、朝霧けいさん「緑のトンネル」(「筑紫山脈」42号、糸島市)

投稿者:ひわき 投稿日:2022年 6月 1日(水)21時15分30秒
「西日本新聞」5月31日(火)朝刊「西日本文学展望」茶園梨加氏筆
題「旧友との再会」
紺野夏子さん「沙和さんの砦(とりで)」(「南風51号、福岡市)、葬(とむら)ヤマメさん「かわく肌」(「第15回びぶりお文学賞受賞作品集」琉球大学)
和田信子さん「母の句会」・田中青さん「子宮ポルカ」(「南風」51号)、宮川行志さん「河口の見える理髪店」(「詩と眞實」874号、熊本市)、青香チエさん「二十分の旅」(「あかね」121号、鹿児島市)

投稿者:ひわき 投稿日:2022年 4月28日(木)17時15分42秒
「西日本新聞」4月28日(木)朝刊「西日本文学展望」茶園梨加氏筆
題「存在への問い」
冒頭、砂川文次さん「小隊」(「文学界」2020年9月号)に触れる。
有森信二さん「タイム・スクリーンへの誘い」(「海」第2期27号、福岡市)、吉岡紋さん「聖少女」(「文芸福岡」9号、福岡市)
出町子さん「指の音」(「詩と眞實」873号)、竹中優子さん「かまぼこ」(「文芸福岡」9号)、川村道行さん「コンパクトタウン」(「海」第2期27号)

投稿者:ひわき 投稿日:2022年 4月19日(火)13時17分41秒
「文芸思潮」83号(2022春号)「全国同人雑誌評」和田伸一郎
対象は「文芸思潮」に送られてきた30誌と評者の手元にある10誌(連載小説を除く)
・「詩と眞實」862号(熊本県)より「剥奪」出町子・「季刊作家」95号(愛知県)より「母なるりんご」津田一孝・「あるかいど」70号(大阪府)より「卵を抱えて」高原あふち・「クレーン」42号(群馬県)より「バンドリの毛皮帽子-サハリン断章」中山茅集子・「季刊午前」58号(福岡県)より「手袋とサボテン」西田宣子・「街道」38号(東京都)より「公園から見える夕日」木下径子・「ガランス」28号(福岡県)より「風の行方」由比和子・「ふくやま文学」33号(広島県)より「すき間・トリップ」花岡順子・「あべの文学」30号(兵庫県)より「鉄塔の下」高琢基・「港の灯」13号(兵庫県)より「道楽」加崎希和、「コロナの時代」堀井邦子・「てくる」27号(滋賀県)より「わけあって飼うことになりました」耽羅沢楮・「架橋」34号(愛知県)より「24歳を迎え、私が今考えていること」(朴成柱パクソンデュ)・「追伸」10号(愛知県)より〈講演録〉「失われた命のために行動するということ-名古屋入管スリランカ人女性死亡事件と私」平田雅巳

投稿者:ひわき投稿日:2022年 4月 1日(金)14時51分38秒
「西日本新聞」3月31日(木)朝刊「西日本文学展望」茶園梨加氏筆
題「詩歌の引用」
木澤千さん「いしのうへ」(「第八期九州文学」578号、福岡市)引用は三好達治の「甃(いし)のうへ」
水木怜さん「ぬくもり」(「照葉樹二期」21号、福岡市)引用は博多の祝い歌「祝いめでた」
「第八期九州文学」578号より城戸祐介さん「新受胎」・小泊有希さん「落魄の山河」、「照葉樹二期」21号より藤代成美さん「一族の終わり(五話)」

投稿者:ひわき 投稿日:2022年 3月 2日(水)13時55分19秒
「西日本新聞」2月28日(月)朝刊「西日本文学展望」茶園梨加氏筆
題「暮らしの変化」
もとむら和彦さん『いのちのかぎり』(梓書院)
「詩と眞實」(熊本市)に連載中の戸川如風さん「遠野幻想/老人と夢」
椎窓猛さん「たいわんどじょうの棲(す)む湖畔」(「村」19号、福岡県八女市矢部村)

投稿者:ひわき  投稿日:2022年 2月 2日(水)12時54分33秒
「西日本新聞」1月31日(月)朝刊「西日本文学展望」茶園梨加氏筆
題「家」
仁志幸さん「しまんだの海へ」(「龍舌蘭」204号、宮崎市)、寺山よし子さん「馬屋番の親子 蒙古襲来絵詞異聞 番外編」(「詩と眞實」871号、熊本市)
渡邉眞美さん「微熱」(「龍舌蘭」204号)、あびる諒さん「横すべりのミツバチ」(「詩と眞實」871号)・まえだかずきさん「フェンスの陰」(同)

投稿者:わだしんいちろう  投稿日:2022年 1月23日(日)20時20分32秒
 今年から、全国同人雑誌協会の同人雑誌評の一翼を担うことになった。私は15年間、群馬県高校生文学賞散文部門(主に小説)の選考委員をつとめてきた。その間、全国高校文芸コンクールの小説部門の審査員も四年間担当した。年間約70篇、兼務している期間は、120篇の高校生の書いた小説を読んできた。したがって会社に在職していた時期は、送られてきた同人誌は、必要に迫られたものしか読まなかった。
退職した今、積読状態の同人誌にツケを払う時が来たと思った。それに考えてみれば、高校生の小説の読書体験を蓄積している私が、六十代以上の書き手がほとんどの同人誌の批評を担当するのも一興ではないかとおもう。
 今回『文芸思潮』に送られてきた、30誌と私の手元にある10誌を小説(連載小説を除く)を中心に読んでいった。印象深い順に紹介する。

「剥奪」 出 町子(『詩と真実862号』熊本県熊本市)
主人公ルイは、結婚して二年経つ共働き夫婦。夕飯の支度をしながら、朝のための牛乳がないのに気づき、近所のコンビニに行く。そこで独身時代立ち読みしていた週刊誌が目にとまり、手に取って開いてみる。その巻頭のグラビアの写真に魅了され「思わずそのページを一枚破ってしまった。」それからルイはそのスリリングな行為を繰り返す。エモノは、ちぎって小箱にしまっておいた。ある日夫が、「中に何が入っているのだと聞いてきた。」「なんでもないのと笑ってごまかした。」
「中のものは自分がコンビニから盗んできたものだと言ったら、どんな顔をしたろうと考えた。その感じが悪くはないのだ。夫の知らない秘密が心地いいのだった。」こうして徐々に精神が壊れていくさまが描かれた不気味な小説だ。ルイの空虚感を埋める行為が、現代社会の危うさを警鐘しているようでもある。

「母なるりんご」 津田一孝(『季刊作家95号』愛知県稲沢市)
主人公「私」の母は、戸籍上祖母で、祖母の娘が出産直後に亡くなったため、祖母に育てられたと聞いている。父については何も聞かされず、そのことに触れることはタブーのようだと子どもながらに感じてきた。「母が父親について話してくれないのは、話すことができないような人、例えば凶悪な犯罪者だからだろうか。」という不安に「私」はさいなまれた。
「息子のためなら自分はどうなっても構わない」といった母だった。母が入院している病院から母危篤のファックスが職場に送られてきて、母の故郷にある病院を訪ねていく。しかし、母はすでに亡くなっていた。そこで会った人々から自らの出生の秘密を探り出す。ミステリーのような展開で、事実が明らかになっていく。

「卵を抱えて」 高原あふち(『あるかいど70号』大阪府大阪市)
結婚して5年過ぎた三四歳の「私」の不妊治療のことが事細かに描いてあり、その辺の事情に疎い私は啓蒙された。夫のことを「津雲さん」と呼び、診察券には「緒方奈央」とあるので、夫婦別姓なのか?そこには触れられていない。不妊治療を始めた「私」に対し、姑は「仕事のつもりで通ってな」とプレッシャーをかける。「勝手なことを言うんじゃないよ、ここに通うために仕事を休み、迷惑をかける上に給料だって減るんだ。おまけに保険が適用されず、医療費の出費だってバカにならない。」と心の中で反発する。不妊の妻への心理的圧迫と偏見を克服していく過程が描かれている。

「バンドリの毛皮帽子―サハリン断章」 中山茅集子(『クレーン42号』群馬県前橋市)
主人公アカリ(10歳)の視点で、1936年のサハリン(当時日本領樺太)が描かれている。世相は二・二六事件、阿部定事件が起こった年である。少女の目に映った新興宗教団体の内部の様子やその弾圧、そしてサハリンの厳しい自然と牧歌的な暮らしが、少女のみずみずしい感性によって、時を超えて当時に舞い降りたような印象を与えてくれる。

「手袋とサボテン」 西田宣子(『季刊午前58号』福岡県福岡市)
揺れるものに拒否反応を起こす「私」は、「飛行機に乗れない。船旅なんてまっぴら。バスもだめ。エスカレーターは避けて階段を上る。」
「私」は、五歳の時に母を亡くし、小学四年の時、父を交通事故で亡くした。その後「伯母夫婦に引きとられた。それからは伯母夫婦を父と母、従兄の光一を兄と呼んで生きてきた。」
 現在は教員をしている兄との二人暮らし。その兄に恋人がいることを知り、動揺し混乱する。「この先、兄のいない部屋で私はどんなふうに暮らしていけばいいのか。」そうして立ち直るまでの心理が描いてある。途中、井上靖の詩の引用はいらないとおもう。

「公園から見える夕日」 木下径子(『街道38号』東京都武蔵野市)
わずか3ページの掌篇小説だが、適格な描写と無駄のない文章で、老いらくの恋がさわやかに描かれている。晩秋の公園を散歩する二人。杖を突いて歩く諒子は、バンパスグラスという「真っ白でのびやかな房をたっぷりとそよがせた、遠くからも目に付く植物」が気に入り、「その白い大きな植物に抱きついて風に揺られたい。」とおもう。
「目の前の広い公園と白い大きなバンパスグラスの見えるベンチに腰掛けて、夕暮れの曇り空をゆったりと眺めていた。
隣に柚木が座っている。二人で人気の少ない公園に落ち着いて座るのはめったにないことで、ゆったりと顔を見合わせていた。」
もはや二人の関係は説明不要である。

「風の行方」 由比和子(『ガランス28号』福岡県福岡市)
 主人公麻子は5歳で養女に入った。「一人で育て上げた息子」が結婚して半年後、養親を45年ぶりに訪ねていく。近所の老女に5年前義父は他界し、義母は入院していると聞く。洗濯物を病院に届けてくれと頼まれる。
学生時代、友人に「私、義母さんが5歳で亡くした子どもの代わりだったのよ。ずっと代わりだと苦しんできた」と心の内をぶちまけた。
「義母は突然現れた麻子に対し驚き、大きゅうなってと場違いな言葉を発したものの、始終冷静であった。短大を出て就職して、一度も帰らず、実質、家出した麻子をとがめたりしなかった。むしろ思いがけない再会を喜んでいた。」そのまま義母の世話を続け、幼なじみやかつての同級生の出現によって、鬱屈していたものが徐々に解放へと向かっていく。ただ説明的な文章が目に付くので、最小限に抑えたほうがいい。

「すき間・トリップ」 花岡順子(『ふくやま文学33号』広島県福山市)
乳がんの定期検査の描写から始まる。五十代半ばの小城由香莉は医師から「左の胸に薄く影があるんですよね」といわれる。高校の時の同級生と一緒に受け、受信後、温泉付きのリゾートホテルに行き、そこで温泉に入ってランチを食べる予定だ。そこで接待ゴルフで来ている二人の営業マンと知りあい、由香莉が坂道で転ぶと助け起こし、気遣ってくれた。
「夫の友広にも、息子たちにも気づかいなど何年もされたことなどない。なんなら、由香莉をお金のかからない家政婦くらいに思っているんじゃないかと思ってしまうことすらある。しかし、別だん、イヤだとか悲しいとか思っていない自分がいる。めんどくさく考えることがめんどうになっている。」これは現代社会の一つの象徴としての言葉になっている。
作者は、軽妙な会話と描写が持ち味なのだが、結末の8行では男たちとの情事が暗示されるが、これは一挙に通俗化してしますので、入れないほうがよい。

「鉄塔の下」 高 琢基(『あべの文学30号』兵庫県神戸市)
 中学2年生田中浩の視点で朝鮮人の級友金村との友情が描かれている。年代は明らかではないが、1950年代後半ではないかとおもう。当時の朝鮮人の集落は、貧しさゆえ、あからさまな差別を受けていた。
金村の家にどぶろくを買いに行った母に、金村の父は死んだと聞かされる。「ともかく南方で爆撃受けて右腕飛んで、耳も聞こえんようになってな、左手一本でリヤカー引いてクズ屋しとったけど、酒の飲みすぎで肝硬変で死んだって。酒飲むと、日本人として兵隊行ってるのになんで障害年金くれへんのや、戦争まだ終わってない、言うのが口癖やと奥さん言うとった」
 金村の不振の行動について級友にきくと「なに金村が瓦めくって何か取ってるって、絶対スズメのヒナや。あいつ、それ売って金儲けしてるらしいで」浩はかつてスズメを飼ったことがあり、ヒナを見せてくれと頼み、金村の自宅に行く。一匹200円や。けどお前やったら150円、いや100円でええわ。
「なに言うてんのん、あげてやり」隣の部屋で病気で寝ている金村の母が言う。
「僕、もう帰るわ。絶対買うから一匹は置いとってよ」
こうした純の少年の目を通じて当時の風俗が描かれている。

次は、ほっこりしたユーモアが漂う作品を二篇紹介する。いずれも『港の灯13号』(兵庫県神戸市)に掲載されている。

「道楽」 加崎希和
「終戦間際に他界した囲碁好きだった父」の思い出から始まる。
「私」が小学三年生くらいの時、人力車で妾のところに行こうとする父に甘えて無理やり乗り込む。
「父は女の人をベニタマと呼んだ。」
「お父さん、ここ、お茶屋さん?置屋さん?」
「元々、父が初代・草起派・小唄の家元なのだ。お稽古の時間が来ても帰ってこない父に代わり、弟子に伯母が代稽古を就けているうちに、家元の座は伯母になり、父は大師匠と呼ばれ、自由な身が気楽でいいと安穏としている。」
「あのぉ……、ベ・ニ・タ・マさんは、父のお弟子さんですか?」
「ベ・ニ・タ・マさんも、父の碁のお相手をなさるんですか」聞くたびにベニタマは「ホ、ホ、ホ」と笑い、父は「おおそうだ」と繰り返す。現在とは対極的なのどかな世界が心地よい。

「コロナの時代」 堀井邦子
 タイトル通り、コロナウイルス禍での生活を描いている。「この際、家に居ようの模範生」となり、ネットフリックスに加入し、韓国ドラマ「愛の不時着」にはまっていく。
「観る時間を生み出すことに今、全頭脳を使っている気がする。部屋に一人で住んでいるわけではない。せつない溢れんばかりの愛のドラマは独りで観るに限る。」こうして、朝、夫と顔を合わすと「今日の予定は?」と聞き、夫のいる時間に買い物に行き、家事を手早くこなす。
「これからスリリングな愛の駆け引きが始まるその瞬間だったのに「ただいま」と靴を脱ぐ気配を感じ、慌てて停止ボタンを押したのだった。いいとこなのにと、舌打ちもしたはずだ。そんな気配を察してか、「あっ、そのままでいいよ。観続けて気にしないで」と、物分かりのいい顔をする。とんでもない。独りで観るからこそ妄想にどっぷりと浸かり、締め付けられるような心情に涙し、感情移入できるのに、相手の存在を意識すると、鼻をかみながら泣くことも出来ない。気が散り集中できない。分かっていないな、とかなり不快な顔で見上げた気がする。」
「かつぎこまれたベッドで呼吸器をつけたままの瀕死の姿が涙を誘う。蒼白の横顔が整いすぎて、美しすぎて、ただ魅入るだけ。気づいたら息を止めていた。胸が苦しいのはこのせいか。手にしたお茶も冷え、思わず叫んでしまった。(死なないで)」
 こうした場面で、読んでいて思わず笑ってしまった。時にはこのような楽しい小説もいいものだ。ただ、こういう軽い感じの小説は、あまり漢字は多用せず、ひらがなを多用して、見た目もやわらかい印象を与えたほうがよい。

「わけあって飼うことになりました」 耽羅沢 楮(『てくる27号』滋賀県大津市)
2009年頃のデパートの婦人服売り場の課長の奮闘記である。不況で売り上げが低迷している中、犬との出会いによって、アイデアが浮かび、その案が採用され、ヒットして部長になる。しかし、時代はファストファッションやWeb通販が進出し、脅威になってきた。営業本部から来たMD推進部長と意見が対立し、早期退職に応募した。現在はアパレル倉庫で検品のアルバイトをしている。趣味で水彩画を始めて奇妙な犬と出会う。この2匹目のエピソードはいらなかったのではないか。

 最後にいろいろ考えさせられたエッセイと講演録を紹介する。

「24歳を迎え、私が今考えていること」 朴(パク) 成(ソン) 柱(ヂュ)(『架橋34号』愛知県清須市)
「私は京都生まれ、韓国・ソウル育ちの〈在日〉三世である。日本で生まれ育つ一般的な〈在日〉とは少し違う経緯の持ち主といえるだろう。」
「1990年代前半までは、韓国人が日本に行くためには、徹底的な反共教育を受けなければならなかった。」
「当時は、朝鮮籍の在日朝鮮人と韓国人の婚姻関係は法律上認められなかった」ため、「私」の両親は婚姻関係を結んだ夫婦ではなかった。
「今でも在日朝鮮人は「北のスパイ」と勘違いされたりする。」といった記述に意外な気がした。私は民主化によって韓国はもっと規制の緩い国になっていると思っていた。
「私」は家の事情から7歳から約15年間は韓国で暮らした。「父は朝鮮籍であるがゆえに年に1回しか韓国に来られなかった」小学生の時に同級生から「パンチョッパリ(半日本人という意味で、在日朝鮮人に対する差別用語)」と言われていじめられた。
「幼い頃の私は韓国語が出来なかったため、新しい単語を聞く度に、母にその意味を聞く癖があった。母はいつも優しく説明してくれた。「パンチョッパリ」を初めて耳にした際も、いつものように聞いてみた。そうすると、いつもとは違い、何も言わないで急に私を抱きしめたのだった。」
そして次のように結んでいる。
「私は、「自分が何者か」に囚われずに生きていきたいと思っている。それが24歳となった私がいま考えていることである。」

〈講演録〉失われた命のために行動するということ―名古屋入管スリランカ人女性死亡事件と私  平田雅己(『追伸10号』愛知県名古屋市)
「今年(2021年)3月6日、名古屋市港区にある名古屋入管の収容施設内で、スリランカ国籍の33歳の女性ウィシュマ・サンダマリさんが亡くなりました。私は3か月後の6月3日、名古屋地方検察庁に対し名古屋入管関係者の刑事責任を求める告発状を郵送し受理されました。」
「肩書も組織も一切関係ありません。自分の生活圏で発生した悲劇に心を痛め、一人の人間として何ができるのか、思慮した上での単独行動でした。」
「私は基本的に根っからのめんどくさがりやで、まして人を訴えるなんて逆恨みされるかもしれないリスクをわざわざ負うなんてことはありえないそんな人間です。
刑事告発は有権者であれば誰でもできます。私は今回告発を書面にしましたが、口頭でもいいですし、弁護士のサポートも必須ではありません。本当は私でなく他の誰かにやってほしかった。」
彼女がなくなる約1カ月前に英語と日本語の両方で書かれた手紙。
「マノさんへ、私はぜんぜん大丈夫じゃないです。この2週間、大丈夫じゃないです。食べることも飲むこともできません。ぜんぶ体がしびれている。職員たちはストレスだといいます。彼らは私を病院につれていこうとしません。私は彼らに監禁されているからです。私は回復したい。でもどうやって?わかりません。どうか、回復するために助けてください。私は食べなきゃいけないのに食べられない。すべての食べ物や水も吐いてしまう。どうしていいかわからない。いますぐに私を助けてください。私はあなたに迷惑をかけたくない。でも、私は大丈夫じゃない。あなたに話すこともためらったけど、あなた以外に私の世話をしてくれる人はいないから。      ウィシュマより」
 理不尽なことを見聞きしたら声を上げなければいけない。なぜなら次には、私たちが理不尽な目にあわされることになるのだから。ここでは個人でも闘えることを教えてくれている。
「世界中のすべての権利=法は闘い取られたものである。重要な法命題はすべて、まずこれに逆らうものから闘い取らねばならなかった。また、あらゆる権利=法は、一国民のそれも個人のそれも、いつでもそれを貫く用意があるということを前提としている。権利=法は、単なる思想ではなく、生き生きとした力なのである。」(イェーリング著『権利のための闘争』岩波文庫より)

今回の優秀作
「剥奪」 出 町子 『詩と真実862号』
「母なるりんご」 津田一孝 『季刊作家95号』
「卵を抱えて」 高原あふち 『あるかいど70号』
「バンドリの毛皮帽子―サハリン断章」 中山茅集子 『クレーン42号』

準優秀作
「手袋とサボテン」 西田宣子 『季刊午前58号』
「公園から見える夕日」 木下径子 『街道38号』
「風の行方」 由比和子『ガランス28号』
「すき間・トリップ」 花岡順子 『ふくやま文学33号』