海 二期
第28号
【「『アルチュール・ランボー小論』(2)労働する存在・沈黙する存在・反抗する存在」井本元義】
詩人ランボーについては、自分は「地獄の季節」など、堀口大学の訳をいくつか読んでいるが、天才の詩精神を味わうだけで、彼の生活的生活の部分は、全く無知で、これを読んで、多くを教えられた。とくに、詩人の表現に関しての、詩人的生活活動と生活的な生活の営みとのバランスに姿を浮き彫りしている。日本の詩人、萩原朔太郎は、実家の資産に頼った詩人生活に、何か不足を感じたらしく、「生活がしたい、生活がしたい」と述懐している。我々が驚嘆する天才的な言葉への閃きも、生活的環境から生まれることを示している。とくに、本編では詩作をやめたとされる、アデンやハラル時代に、沢山のレターや光を放つ断片を記していたことがわかる。井本氏の精力的な評論は、物語性に富み、読者をランボーの精神と実生活に否応なく誘う。文学的詩精神の神髄を知るための優れた教材にもなる。
【「幻聴」高岡啓次郎】
ベテラン弁護士としての実績をもつ男が、病気で亡くなった妻の声で、妻のぐちと恨みののようなものを聴くという話。小説を書き慣れた筆遣いで、安心して読ませる。作者も安心して書いている。同人誌らしい書きたいものを書いた良さがある。
【「灘」有森信二】
ヒサという、高齢者の家族の島国での話。娘が病気で苦しむ様相を、主体に状況を語る。昭和時代の島暮らしの生活の記録なのか。独立体の小説にしては、周囲との関係がわからない。感情移入させる巧さが印象的。
【「ある恋愛の顛末」牧草泉】
恋愛論を並べながらナンパ話を展開する。スタンダールやバルザック的な描写論を超えて評論を交えているのが現代的なのか。音楽鑑賞と女性の性格を結び付けて面白く読ませる。
【「幼年期―郷原直人の場合・其の壱 じっけん実験-前編―」中村太郎】
敗戦後の台湾から戦後の引揚者であったらしい直太の子供時代の話。文体に勢いがある。
【「虚空山病院」井本元義】
冒頭に、埴谷雄高の「死霊」の出だしを使用して、読む者の意表をつく。その内容は、精神病院の2代の院長をめぐる女性との愛の関係を濃密に語る。構成もゆるぎなく、陰鬱さの中に人間のロマン性の美意識を描いた力作である。作者の才能の豊かさを堪能できる。
紹介者=「詩人回廊」編集人・伊藤昭一。《文芸同志会通信2022.7.24》
第27号
【「黄色い朝」神宮吉昌】
唇の血管が腫瘍になり肥大する「海綿状血管腫」、別名「動脈畸形」という病気になった男性の闘病記である。ネットなどで調べた結果、彼の場合、先天的に血管が左側がだけ血液がスムーズに流れない畸形であったものが、30代後半になって血の流れが滞り、徐々に晴れていったーーということから唇周辺が腫れ上がってしまうのであるという。発生場所は、心臓であったりすることもあるらしいが、彼の場合、唇というのも、顔の表情に影響するので厄介である。治療してもなかなか治りにくいものらしい。小説化されているが、症状の改善に治療先を、変えてゆく過程は、ほとんど事実に沿ったものと、推察できる。落ち着いた筆致で的確にその過程が描かれている。快癒に近い情況になるまでが、冷静に記されている。不可解な難病の人たちにぜひ読んでもらいたい作者の姿勢である。自分もストレスによる複雑な神経症を患い〈思い込みとされたが〉、どこも病気でないと、2,、3の大病院で云われた。困っている時、ある東大の物療内科の医師に出合って、改善することが出来た。その医師も、ストレス神経症とは限らない。いろいろやった治療のどれかが役立って、改善しただけという。もし、正確に知りたければ、九大の専門化に調べてもらったらー、と言われた。いや、ここまで軽快すれば原因など、どうでも良いですーと言ったものだ。その時に、余談で、脊柱に生まれつきの欠落部があると指摘され、後年での影響を予測された。今になって、それが的中しているようだ。
【「織坂幸治追悼小特集」同人各氏】
織坂氏の過去の作品の「現代教育考」が掲載されている。当時の社会に対する批判と反抗精神がにじみ出ている。戦争に敗北した結果の日本人精神の脳への影響と、米国への批判精神も健全なものである。
【「真凛の世界」高岡啓次郎】
友人の女性から、突然どこかに一緒に行ってほしいと頼まれる。理由の説明のないまま、いわれた通りに旅に同行する。道中、その女性の謎の動機にせまる心理を描く。起承転結の小説の法則が守られているのでよい感じ。読み進むのが楽しい。この作品の読みどころは、男が女の事情を推理するところ。話の種類や設定が異なっても、同じパターンをまもることが大切。話のなりゆきで、転と結びに困ることが出てくる。そこを閃きでのりこえるところが、作者の個性になるのでは。
【「コンパクトタウン」河村道行】
人口減少に伴い、過疎化が進む自治体では、住民が一カ所に集まって住んでもらったほうが、インフラなどの簡約化につながる。その意味では、現代進行形の問題提起になっている。話は過疎地に散らばっている住民に、便利なところに移住するのを説得するお役人の話らしい。舞台設定は充分で、あとは人物像に深みみをあたえること。ある程度は、それもできていて、面白かった。
紹介者=「詩人回廊」編集人・伊藤昭一。《文芸同志会通信2022.1.10》
第26号
【「風に揺れる葉」牧草泉】
「私」が夜に村上春樹の小説「風の歌を聞け」を読んでいると、夜に電話をかけてきた友人がいる。44歳になる教師である。話はひと月先に人と会う約束で、終わる。それから、村上春樹が、芥川賞か直木賞を受賞しなかった理由の解説になる。文学話が終わると、友人Tの家を訪ねる。そこでTの妻が新興宗教の信者になっていることへのこだわりが語られる。それから、大学入学と在学中の友人関係の話になる。なかで、結婚生活における夫婦の営みの意義など、話題にでるがそれに対する追及もない。全体にとくに強いこだわりのない、淡々とした調子の風俗小説。村上春樹的な描き方に特徴があるように思った。
【「月の砂」高岡啓次郎】
夫婦で亀を死ぬまで長い間飼った話で、そこに妻のうつ病の経験談などが入る。おそらく作者は幻想的でロマンチックな感じを表現しようとしたのであろう。月の砂という詩的表現がそれにどう結びつくのか、わかりにくかった。
【小詩論「賢治とカミユとランボー/その反逆と労働について」井本元義】
宮沢賢治とランボーには共に妹がいたことや、二人とも37歳と1カ月で亡くなっているそうである。両者の人間関係に焦点をあてており、そうなのかと、思わせる。カミユに関する話がないので、続きがあるのだろうか。
【「蒼い陽」有森信二】
非現実的な異世界のなかの話で、「私」は、大意識のなかで分裂し、地上の自分を天空から眺める自分がある。意識は時間のなかを自由に駆けまわる。この辺は、大変に面白いと感じさせたが、「私」が一人の自分に収斂してしまうと、たんなる異次元のSF的な世界のなかの出来事になる。大意識の捉えた世界が曖昧になってしまった。
【「エゴイストたちの告白・第三話―千の夕焼け」井本元義】
平田基弘に、55年前のMという友人からぶ厚い封書が届く。海外からのものである。そこからまず、平田の人生の回顧が語られ、つぎにMの封書の内容に移る。かなり重厚な内容で、人生の盛りの時期の女性関係と、彼の妻の話が語られている。なかに詩篇などが組み込まれ、文学的な精神性に富んだ遺書のようなものになっている。小説らしい体裁のもので、あまり面白く読めるものではないが、ひと時の世俗の憂さを忘れさせるものには、なっている。
一般に本誌だけではないが、同人誌小説のほとんどが、純文学的で、形式のない表現に頼った手法で、書き手が自分の世界を語るもの。どん名作を読むより、自分で書く方がよほど面白いと、菊池寛が指摘している。書く方は、面白いかも知れないが、なにせ、スピード感がない。読む方も、カラオケで他人の歌っているのを聴いている気分で、切実感に欠ける。自分も、どう紹介しようか、考える時間が長くなる。文芸同人誌読みの宿命で、仕方がないものの、作業がはかどらないのは、自分でも焦っているところである。
紹介者=「詩人回廊」北一郎。2021年7月29日
第25号
【「あだし野へ」有森信二】
帝国大学の職員で古株である浦松丈助が、大学入試の試験問題を、博多から新幹線で彼より若手の同僚と大蔵省印刷局に受け取りに行く。それが恒例らしい。慣れたその仕事であるが、そのなかで、彼の人生の営みのなかでの、数々の出来事を想起し、退職が近いことで生まれる感慨。実家は長崎で、戦争に駆り出されているうちに、家族を襲った原爆の悲劇。戦後の学生運動の対応。災害となど、次々と浮き彫りにされる出来事は、浦松にかかわる出来事のようでいて、彼の周囲の人々の苦しみの幻像に脅かされる現象を読むと、それらが、同時代の日本人全体に通じる出来事と感情を集約したものとなり、人々の人生のはかなさを、まとめ上げたように、読めた。ひと癖ある表現力の発揮として、個性的なものになっている。
【「終雪」高岡啓次郎】
死に場所を求めて旅に出た「ぼく」は、北海道に行く。レンタカーで釧路の山道をいく。湿原の反対側の展望台にまわったりする。その時に、中年の孤独な女性に出会い、共に未来を共にする道を選ぶ。文章に歯切れの良さと表現の巧みさがある。しかし、その巧みさは、ストーリーテリングのために適したものなので、そこに徹して構成などをよく練ると、完成度がもっと高まると思う。この作者の作品は、「文芸思潮」などに掲載したものなども読んだが、たくさん書いている割には、物語の作り方がいまひとつであった。面白さを出すためには、不自然さを避けては、話が弾まない。自分は「グループ桂」という伊藤桂一氏のテキスト誌に作品を出したら、女性陣を主にしてか大変な悪評で、どうも印象が強いらしいと思い、雑誌社に持ち込んだら、面白いと採用された。それを読んだ友人が、あれに出てくる女ね、色が浅黒いと書いてあっのに、下半身が白いようになってしまて、理屈に合わないな、と言われて、それもそうだと思ったものだ。
【「評伝・人間織坂幸治」井本元義】
織坂氏の著書「綺言塵考」は、読んだが、言葉への並々ならぬ関心と思考力を味わえる名著と思って、引用してみたい箇所が多くある。本編を読むと、まるで当人の書いた自伝のようで、その精神の共鳴ぶりが表れていて、大変面白い。織坂文学の渇望する表現意欲を理解すると同時に、評者の詩人・井本元義の氏もまた、文学的な世界での表現意欲があり、良き理解者であることがわかる。織坂氏は1930年に福岡市に生まれ、両親に連れられ満州にわたる。その後の人生航路と、文学との縁を、生活のなかの文学的活動に寄り添って記している。とくに、兵役で脚を負傷し、帰国。仕事を、映画配給会社、電通、喫茶店経営など多種な職業遍歴を、実にうまく表現している。自分は若い頃コピーライターとして、人物伝など物語化を依頼されてきたが、これほど巧くはなかった。無能さを時代が助けてくれたのだと、妙な感慨をもった。
【「『資本主義の終わりより、世界の終わりを想像するほうがたやすい』と、マーク・フィッシャーは書いたが」群青】
自分は、あまり詩の紹介をしないが、これは素晴らしい。ほとんど詩集という感じの作品集であるが、どれもわかりやすく自分の世界観を素直に語る。日本にも、ホイットマン的な感覚の詩人がいたかと、感銘を受けた。
【「Y女子大文芸サークル」牧草泉】
会話だけで進める小説でもあり、文芸評論でもある。会話の連続で進行するのではなく、会話の主をM、B、D、F、Cなどと、多彩な人間の会話で、大学の文芸サークルに関して興味を持った学生同士のランダムな文学話で、芥川賞直木賞についての現代的な意義や、作家論として、元レースクイーンの室井佑月が現代性があり、あとは「鯨神」で芥川賞をとった宇能鴻一郎の官能小説転向話や島崎藤村の近親相姦話などからセックス論まで、まとまりないものだが、とにかく会話だけで小説にするという試みに、大いに刺激を受けた。
まだ、ほかにも作品はあるが、文芸色の強い雑誌的な魅力のある同人誌である。
紹介者=「詩人回廊」・北一郎。2021年2月18日
第24号
【「ターミナル」高岡啓次郎】
大手通信社に長年。勤務し、結婚し家を建て、順調な人生を送ってきた「俺」。それが突然、子会社への勤務を命じられる。希望にあふれて過程を持ったが、子供ができると、妻の立場は強くなり、俺の思うようにならない。そうした環境のなかで、ヒッチハイクをする青年ルイスに出会う。フランス人でゾンビのパフォーマンスをする芸人である。彼の悲恋を語ることで、情緒的な雰囲気の形成には成功している。小説の執筆には手慣れたものがあり、作者の書く楽しみぶりは理解できる。
【『平家物語』ノート(第1回)赤木健介】
日本の古典であるが、冒頭部分の祇園精舎の鐘の音のが、仏教の経典からきていて、全面的な創作でないことを記す、このことで、平家物語が、人々のその時その時の語り部が、語り継いで変化してきた物語であることが、暗示されている。章によって表現力の変化があるので、その事情を分かり易く知ることが出来たら面白いのではないか。
【「隣接地」有森信二】
父親の遺産の土地や家について、隣接地と独特の交渉をして、通路使用について、うまく調整してきたものが、現代になって、領地争いが深刻にる、相続者がそれに困惑する様子を描く。よくありそうなことなので、同様の体験者に興味深いかもしれない。しかし、語り手が利害を離れた立場であるので、事実経過話に終わっている。実は、じぶんにも似た体験があって、その相続した土地が、借金して銀行の担保になっていたのがあとからわかった。しかも相続人が5人もいた。銀行は長男の私が全部担保を引き受けるという約束だったという。各相続人が300万円払わないと土地担保は没収するという。各相続人は、遺産をもらえると思っていたら、300万円出すなんて、あり得ないと怒ったものだ。そのうえ土地の隣接人が8人もいて区画整理をするのに大変だった。人間欲が深い。そんな体験があるので、興味深く読んだ。自分の場合、借金と父親の出費してる信用金庫、大手銀行の貸しはがしの時代。結局あの手この手で、結局土地資産は失わず、兄弟姉妹に何百万かの資産分割ができた。その事情は彼らに話していないいので、棚からぼたもち相続としか思っていないし、その事情と苦労を小説にする気もない。
【「エゴイストたちの告白ー第2話ー貴腐薔薇」井本元義】
とにかくロマン派の趣味で、早読みできない。じっくり書いているが、根本が日本人精神ではないので、バタ臭さがある。神の存在した時代の魂に触れる精神を、日本的なものと結びつけるモダンな試みかもしれないが、この辺で仕方がないかと思わせる。
【「キャピタゴンα」河村道行】
身の回りの出来事を縷々と語る独白文体で、読みやすいが、それに慣れ過ぎて、内容の重さが均等になっていて、途中で退屈する。書きやすいいスタイルを開発するのは、素晴らしいが、それなりに文体に合わせた構成の工夫が必要なのではないか。
紹介者=「詩人回廊」編集人・伊藤昭一。2020年7月16日 (木)
第23号
【「喫水線」有森信二】
因習の残る時代のある島の家族の話である。あとがきには、看護師を看護婦としていた時代と説明がある。一昔前の、核家族の進行している時期であろう。話は語り手が二男で、未婚。実家に家族と住んでいる。話は、家長で高齢の父親の重病とその手術の様子を描き、そのなかで家族と島の住民共同体の姿が浮き彫りにされる。長男の俊一は、結婚し家を建ててしまっている。本来は、長男が実家に残り、次男が家を出るのか普通であった。そのパターンが崩れている。作者は、家父長制度のなかの土地柄と村のとの人間関係、それに気を使う家族像を描く作品を多く描く。核家族の進行する現代への移行する過程を想像させるが、それが過去の否定なのか、ノスタルジアなのか、混迷する現代社会の捨てたものの中に、失われたものを照らし出すような、微妙な読後感を残す。
【「エゴイストたちの告白-第一話 センナヤ広場の地下から」井本元義】
これは、純文学のうち、特にドストエフスキーの愛読者に特化した作品である。登場人物は語り手の年配紳士と、彼の双子のような雰囲気の紳士との関係をミステリー風に絡ませる。密度の濃い落ち着いた筆致の語りで、読む者の気を逸らさせない。見事な手腕に感銘を受ける。なかに「罪と罰」のマルメラードフを登場させたり、スヴィドリガイロフ等に筆を及ばせることで、独特の世界を作り上げている。ドストエフスキーの生み出した人間像を、現代日本に移植するような、感性は魅力的で、面白い。感服させられた。
【「友誼を断つ」中野薫】
昭和時代のベトナム戦争反対の機運があった頃、若者であった語り手と友人の三吉の人生を描く。三吉はジャーナリストになり、語り手は警察官になる。それぞれの生活のなかで、歳を経て意見の相違から、語り手が長い付き合いを断絶することにする。今さら何の影響もない出来事だが、多くの人がそうであったのであろうと思わせる生活史になっている。
【「束草の雪」牧草泉】
主人公の男の語り手は、高齢であるが、教師の経歴から、かつてMという女生徒と韓国行きの手配を幾度か頼んでいた。そのMと共に韓国旅行をする。Mは、事あるごとに男に迫るような雰囲気を見せる。男はそれに無関心のような振りをしながら、韓国巡りをする。韓国の事情がわかって面白い。その後、Mが癌で亡くなったことを知る。味のある作品。
【「アイツの経歴」神宮吉昌】
車いす事故で亡くなった、息子を父親が「アイツ」と称して、その人生を語る。気持ちを全部書いてあるので、解釈を間違えられる心配がないのが長所だが、読者の気分の入る余地がないのが短所。
【「見てくれじゃないよ」川村道行】
語りかけるスタイルのお話で、出だし好調。しかし、その後は語りが単調で、結局は最期の2頁を読めばわかる話。語りを書ききった根気に感心。
紹介者「詩人回廊」編集人・伊藤昭一。
第22号
【「レンゲと『市だご』」上水敬由】
「市だご」というのは、昔からある団子のようだ。それを買いもとめる話と、映画の俳優のセリフ字幕文字が、英語のオリジナルのセリフそのまま訳すと、差別用語になるので、それに抵触しないものに変換されている事実を指摘する。正確であるべき表現としては、適切なのに「差別用語」と批判されることを恐れ、当たり障りのない言葉や、物語にして自己規制することに対する警戒心が出ている。ライターが機関誌などを編集したり、原稿を書く場合は、この差別用語がないかチェックすることから仕事がはじまるのが、実情である。
【「流れ雲」牧草泉】
いつの時代は、かなり昔のことらしい。彼と称する若者の生い立ちから思春期までの物語。父親は病死したとあり、兄がいる。イニシャルの人物などが存在するところからすると、自分史の一部なのかとも思えるが、その辺はわからない。いわゆる 教養小説 (ビルドウンクス・ ロマン)の部類であろうか。
【「FAIR&UNPREJUDICE」川村道行】
フェアトレードの講義を受けている語り手が、就職、転職のいきさつを述べる。作文の範囲であるが、なぜ、この話なのかは不明。
【「鼻の記憶」中野薫】
慧という少年の炭鉱の町の住民としての生活ぶりを描く。当時の炭鉱労働者の生活を描いたものだが、部分的には生きているところがあり、厳しい環境のなかで生きた2度とない過去を偲ぶ雰囲気小説的な作品に読めた。
【「一番鶏と青い空」有森信二】
釘山触という田舎町の町役場に勤める職員の視点で、地域共同体の出来事を語る。問題となっているのは、町のゴミ焼却施設設立の是非である。各章のはじまりを、鶏のコケコッコーの鳴き声を出す、知的障害の女性のことから始めることで、なんとなく風刺的な軽さもった洒脱な雰囲気をだしている。昭和の戦後生まれの世代は、村社会的なで軍国的雰囲気から、共同体の保持のための村八分もあったりしていた。それを打ち破ろうと、当時の若者たちは、地縁、血縁、親戚縁に反抗していた。しかし、この作品では、共同体を維持する結束力について、排除のない暖かい雰囲気に描いている。核家族化した孤立した人々になった現代社会を皮肉るような筆致で、作者の表現感覚の独自性が出ている。
【「大杉栄と友人林倭衛」井本元義】
新宿にあった文壇バー「風紋」のマダム林聖子氏は、画家・林倭衛の娘さんで、昨年に店じまいした。林倭衛の妻で、母親の富子が太宰治と親しくなって、当時10代の頃の出会い作品「メリイクリスマス」のモデルになっている。本作の井本氏も「風紋」に通ったらしい。画家の林は、大杉栄や辻潤と親しく、本作にもあるが大杉栄の肖像画も描いている。辻潤の妻であった伊藤野枝は、大杉栄のもとに奔り、最終的に甘粕大尉に大杉と共に惨殺される。そうした経緯を林の視点で想像力を発揮して物語にしている。甘粕大尉のその後の運命を描くなど、良く調べてあって興味は尽きない物語である。自分は、作家の森まゆみ氏の調べた林倭衛の生涯の年表を、詩人・秋山清を偲ぶコスモス忌でレジュメにしていたので、それを「暮らしのノートITO」で公開したところ、坂井てい氏から連絡があり、なんでも雑誌「東京人」に発表する素材なので、未発表なものなので削除してほしいという要請が森氏からあったそうで、その部分だけは削除したことがあった。
紹介者=「詩人回廊」北一郎。