私 人
第107号
【「三日月の下で」えひらかんじj】
都内の病院の院長をしている曽根哲夫は、病院にトラブルがあって、一時的に院長をしている。彼は、ここの問題解決課題と、自分自身の作家として小説刊行の準備中である。医師業をやめて作家に専念したい気持ちだが、なかなか難しい。その事情を具体的に、疑似私小説的に描かれており、面白く読める。同人雑誌らしい作品といえる。
【「水戸の桜」根場至】
商社マンであった聡の父親は、単身赴任の海外勤務が長く、息子とは会うことが少なく、帰郷してきた時には、よその小父さんでしかなかった。その関係が続いたまま、父親は日本の原発事業に関わる仕事につく。そして福島原発事故が起きる前に、寿命を終える。被災地の人の語る「原発は魔物。みんな犠牲者だ」という言葉に、父親もそうなのか、と思うが、これまでもっていた反感は消えない。ーーこいうこともあるのか、と家庭の事情がわかる。しかし小説にするための「水戸の桜」の逸話とは融合していない。それでも、印象深い話である。
【「腹が空いた」杉崇志】
源田光男という男の人生と家庭環境を描いたものらしい。彼の父親との人生の周辺と家庭環境に的を絞り描かれている。各部分はよくかけているが、それが全体として、それをどう受け止めればよいのか、わかりにくい。文章力はあるが、テーマと問題提起に工夫が必要に思試作品試作品のようでもある。
紹介者=伊藤昭一。《文芸同志会通信2022年9月11日》
第106号
【「小諸なる」根場至】
全体に小説としてよく書けている。小諸にある地元の銘酒「古城」を醸造する藪塚酒造という造り酒屋がある。分家として、それを販売する藪塚酒店がある。中には角打ちを嗜むためのカウンターもある。古風な雰囲気を保つ古老の経営者には娘しかいない。そこに婿を迎える話がつづく。小説を書きなれているので、読みやすい。ただ楽々と書いているだけの気軽さもある。何か、縛りをもって書いた方が、作者にとって工夫する楽しみがあるのではないか。娯楽小説にしてはつまらな過ぎる。純文学にしては深みがない。ただ、読みやすさが取り柄である。
【「海辺のカフェ」えひらかんじ】
これも全体に良く書けている。これは、東京で勤務医をしていた曽根哲夫が、激務で体を壊して入院する。それをきっかけに、勤務医をやめる。結婚して2児の過程をもつ。職探しをしていると、小さな医院を開業していた父親が病死する。さらに妻も急死する。そんな出来事を縫って、哲夫の生活ぶりを描く。話に筋があってつまらなくはないが、それほど面白くもない。筋立ての周辺事も必然性が薄く、途中から期待をしないで読むので、それなりに面白いが、趣味小説につき合う感じがして、感想もわかない。まあ、いいんじゃないですか、という感じ。
【「敗戦国の残像」尾高修也】
これが一番読みごたえがあって、興味深かった。昭和の戦争の時代に生まれ、その後の昭和を生きてきた。昭和12年生まれ、とういうから私より5歳先輩でアある。日本の敗戦後の米国追従の歴史は、度を超したものという実感を持っていることに、同感した。同じ視点がの日本人が存在することに驚いた。米国がイランと石油などエネルギー関連で取引のある企業を対象とした「イラン制裁強化法」が成立したのを受け、日本側に同油田からの撤退を指示、中国にその権益が渡った。フセインクエート進行には、日本人一人当たり3万円の税金使用。その金でアメリカは湾岸戦争をした。イラク戦争のフセイン大量兵器保持のウソの情報をまず認め、参戦。それでも小泉首相の判断に国民は文句を言わない。その他、沖縄問題でも、基地問題整理し独立国的構想を打ち出すと、失脚させた。いまでも、鳩山氏をアホ扱いするアホな国民。わけがわからない。その根底には「日米合同委員会」という超法規、超憲法の縛りがあることは、見当がつくが、その詳細は非公開である。ウクライナ問題でも日本は悩む余地はない。米国の指示どおりにするしかないのだ。
発行所=朝日カルチャーセンター。
紹介者=「詩人回廊」北一郎。《文芸同志会通信2022.04.07》
第105号
朝日カルチャーセンターの新宿住友ビルの教室の尾高修也教室のもの。
【「花曇りの頃」えひらかんじ】
純文学作家で、あまり人気のない幸田は雑誌社編集長から、頼みごとをされる。時代その小説の人気作家、林文吾に会って、原稿依頼の根回しをしてほしいというのだ。林とは、何年も前にこの社から本を出しておらず、他の出版社を稼がせているのだった。幸田は、林とは小学校の同級生で知り合いだった。ところが、幸田は現在、時代小説の執筆を引退して、現代小説に転向したがっているという。話の進行が遅いものの文章はたしかで、面白く読める。秀逸なのは、林という作家の語るグレアム・グリーンの「第三の男」の映画と小説の表現視点の異なるところ指摘するところであろう。G・グリーンの作家としての原点に迫るところがある。そこが面白い。
【「岩魚」根場至】
岩魚を釣りに行く話の中に、父親のとの関係を思い起こし、理解度を深める。内向きの話である。
【「落伍者たち」梶原一義】
過去に、会社を倒産せた男が、事業に失敗した人達の相談に乗るという。かつての「八起会」のようなことをしている。ちょっと時代背景が古く、駆け込んでくる人の話も類形的。映画のシナリオの初期箱書きのような感じがする。自分は、事業再生の仕事を手伝ったことがある。企業倒産したから落伍者という概念はないし、倒産会社の10の条件も抽象的で切実感がない。昭和時代の話のようだ。
【「青空が垣間見えた時」青木裕子】
コロナ過による、事業の持続化給付金の詐欺にかかわり、事件に巻き込まれる税理士の話。時代感覚に優れたところが良い。
発行所=〒364-0035=埼玉県北本市西高尾4-133、森方。
紹介者=「詩人回廊」・北一郎。《文芸同志会通信2022.2.7》
第102号
【「フォーチュンカウンセラー」みやがわ芽生】
本作品は、巻末にある作品であるが、ちょうど自分の考えていることに、関連するものがあるので、これから紹介する。語り手の「私」はフォーチュンカウンセラー。占い師のことをこう称するそうである。まだ、若い女性で、それだけで生活できず、アルバイトもしている。ここで、タロットカード占いの基本と、どんな人が占い師の客層なのかを、説明してくれる。非常に話の運びはスムーズで、登場人物の書き訳も手際がよい。作者の体験が入っているとしても、(実際は不明だが)、創作として、作品と作者の距離感がしっかり取れている。会話が当意即妙。才気があり職業作家的な手腕の持ち主なのが、わかる。これは小説の骨格をもっている。純文学ではない、と感じる人がいるかも知れないが、なにはともあれ小説というものである。自分は、その意味で純文学というものがわからない。作者と作品がくっついていて面白くないのが多いのである。エッセイにしても、なにを表現しようとしたのか不明なのもある。商業誌の純文学作家でも、作品との距離感がないのもある。同人誌作家のなかには、それを手本にしているのではないか、と思わすものもある。自分は、それは小説には思えない。この作品を読んで、やっと小説が読めたと、うれしい気持ちになった。
【「アラスカの夏」えひらかんじ】
サンフランシスコの会社に父親のコネで就職した若者が、アラスカに行きたくて、そこに出かける。アラスカの風物が良く描かれている。その体験を生かしてか、精神をリフレッシュさせで、米国でのビジネスに乗り出す。ちょっと以前の時代らしいが、雰囲気的にアメリカ人のハイソサエティの情況と特性が理解できる。
【「ナナハン」根場至】
定年退職後なのであろう、生協の配達仕事をしている主人公が、配達先のお宅に大型2輪バイクおいてあるのが気になる。そこで、自分もそれに乗ってみたくて、その家の持ち主に、後ろに乗せて欲しいと頼むが断られる。そこで、一念発起、まず普通2輪免許をとり、バイクを買う。その後、大型2輪免許も取得する。200キロもある大型バイクを支えるのも大変な体力がいる。そのため快挙であろう。高齢者のもつ夢を追求して大変面白い。
【「98点」杉崇志】
カナリアの愛好家には興味深いであろう、少年時代からのカナリアに凝る男の話。カナリアの生態や飼い方には、理解が深まるが、文芸的な小説には思えない。語りの要領が悪い。小説教室の作品であるなら、批評のしやすい作風であろうと改めて思った。
【「協力者」梶原一義】
昭和48年ごろの、政治思想活動の革命を目指す「過激派」に関する、一般人というか、ノンポリの人たちの話である。成増署から、地域の学生相手の下宿屋に、電話が入る。過激派と思われる人物の家宅捜索を、秘密裏に実施させてほしい、というのである。本人に内緒で、そんなことをしていいのか、もし、革命派だったら、ゲバ棒組の祟りが出るのではないかと、大家さんは悩む。いかにもありそうな話で、場所も具体的なので、おそらく事実に近いのであろう。この時代の政治的地下活動の一端が知れて面白かった。
【「『内向の世代』の疎開小説―李承俊『疎開体験の戦後文学史』を読む」尾高修也】
李承俊『疎開体験の戦後文学史』という著書が青土社から出ているそうである。黒井千次、高井有一、坂上弘の疎開小説を論じているという。人間の奥深い心理を小説で表現するには、文章力の巧みさが求められる。日本の共同社会との不調和感について、思い当たるところがある評論。
発行所=東京・朝日カルチャーセンター「尾高修也教室」
紹介者=「詩人回廊」編集人・伊藤昭一。
《文芸同志会通信 2020.10.19》
第101号
4月発行とあるのに、なぜかいただいた同人誌の積ん読の中から見つかった。遅まきながら紹介しましょう。
【「古井由吉追悼」-傍観録40」尾高修也】
これで、思い出した。本作を読んで、納得して、紹介文を書くのを忘れていたのだ。筆者は古井と高校生時代からのお付き合いだったという。古井の50代ころの作品「背中ばかりが暮れ残る」の解説がある。私小説の部類の作品だそうだ。その解説をよく理解できるように、わかりやすく解説があるので、なるほどと納得する。古井由吉の特徴として50代後半の頃から、隠居に近い老人の立場を「老耄」として描く作風であるという。なるほどと、思った。自分は若い頃、古井という人は、ドイツ文学者でムジールの研究者というイメージしかもっていなかった。その当時、団塊の世代を対象としたオーディオメーカーのマーケティングを支援していて。機関誌記事を寄稿していた。そんな時に、モダンジャズの好きな担当者がいた。彼が、自分にモダンジャズの愛好者が芸術志向が強すぎるなかで、こんな文章で何かアピールできないか、と渡してくれたの芥川賞受賞作などを載せた短編集だった。非常にマニアックな、感覚的表現に優れたものであった。自分は、マーケティングのコピーライトは、手垢がついたありふれた表現をもって、新しさを生ますのが定石のようなもので、それは難しいといったことがある。純文学もモダンジャズも感覚的な芸術性を追求するがゆえに、大衆性を失って、マニアックな世界でしかない、と答えたように思う。
【「アンビルド」えひらかんじ】
建築設計の世界で、設計デザインはすぐれているが、構造が建設に費用がかかりすぎるので、実現しない設計のことらしい。構造デザインに優れた新人の設計がアンビルドに終わってしまういきさつを描く。建築専門分野の小説として、優れた作品のシリーズを形成している。
その他の作品は、よく書けたものがいくつかあるが、どう紹介していいかわからないものが多かった。
紹介者=「詩人回廊」編集人・伊藤昭一。《文芸同志会20207.11》
第100号
【「百号の年月」尾高修也」】
朝日カルチャーセンターの尾高小説教室講師の100号に至るまでの経過と同人誌観が記されて居る。自分は、文芸同人誌の時代の変遷や動向に多少の知識があるだけで、全容を知らないので、大変に参考になった。まず、本誌は1990年にはじまり、4回発行してきて100号を迎えたという。「かつては小説教室に集まる人が多く、そのなかから同人雑誌を出したいという声が自然に生まれた。が、現在それは自然なことではなくなっている。」という。数ある小説教室のなkで、同人雑誌を出してるのは少ないらしい。その理由として、作家による作家教室でなく、元編集者が教える教室が増えたことと関係がるのかも知れないと、ある。元編集者系の講師になると、「考えがビジネスライクになり、教室は新人賞をとらせるための実践教室といったものになりがちなのだろう」ともある。なるほど、そうなのかと理解する。
さらに、「小説を書くという二とが、いよきわめて孤独な行為になってしまっている.、社会の転変のなかで、書き手の孤立が進んでいる…」
ともある。
また、「いわゆる小説教室の最初のものは、朝日カルチャーセンターにおける駒田信二氏の.『小説の作法と鑑賞』であった。1976年年1月の開講で、はじめは週一回の講座が.一カ月で終わるはずだったという.『書き方』は.3カ月教えれば十分。というのが学校側の考えだったのだろう.その後受講生が嘆願して、教室がつづくことになったのだそうだ。」とある。ーー自分はこの時代のことは何も知らないので驚く。
その当時、「主婦たちが小説を書く」ということが.マスコミで面自半分にとりあげられた。.暇をもて余した家庭の主婦の遊びごと、という見方である、さらに、基本的に、小説の書き方は教えられるものか、という疑念があったのである。ーー駒田氏の教室で学んだ重兼芳子さんが「やまあいの煙」で芥川賞を得て.駒田氏に対する股誉褒疑の騒ぎが大きくなっていった。いまから見て、「主婦」ということばが強調されすぎているのに驚く。そのへんの事情はたしかに変わってきた。駒田氏開講の十数年後、私が「私人」の教窒を始めたころは、相変わら.ず婦人雑誌が取材にきたりしたが、すでに騒ぎは落着いていた。それでも、「私人】創刊号の創作欄は全貝女性の作品で占められている。それが三十甲後の現在と違うところである。ーーそうなのか、と納得。そこからいわゆる、小説家と作文家に、分かれて、同人誌に多くの作文家が存在することになったらしい。
【「『私人』100号に寄せて」鈴木真知子】
小説教室の「私人」について、生徒としての学びを述べるなかで、雑誌「文学界」の同人誌評の1993年から2008年の間に、取り上げられた回数が記してある。評者は、大河内昭璽、勝又浩、松本徹、松本道介。そのなかで46名が取り上げられ、ベスト5が8名、下半期最優秀賞が1名という実績を持つとある。純文学としてであるためか、文人として活動する人が少ないのだなと、わかる。例えば、自分が所属して、今年141号で休刊した「砂」誌は、自分も入れて、「文学界」の同人誌評は何人かは不明。「群像」に転載1人、「週刊新潮」に転載1人、新潮新人賞受賞作家1人、「婦人公論賞」1人、「日本ミステリ大賞」作家1人、売り込みで商業誌作家1人という実績である。たた、それらの人とは音信不通のまま休刊となった。自分が「砂」に寄稿していたのは、印刷会社の社長が親友で、原稿不足で本が出せないというので、寄稿していた関係である。マーケティングライター生活をしながらでもあった。作文が多かったが、そのなかで、コピーライターでは書けない悪事を働く警官を事実に基づいて書いたら、警官がこんな悪いことをするはずがないと、掲載されなかった。今ではそんなことないであろうが、自分は大衆的感覚という点で、そういうことのバロメータとして、同人誌の人たちの感覚に興味を持った記憶がある。
発行所=東京・朝日カルチャーセンター。
紹介者=「詩人回廊」北一郎。《文芸同志会2020.3.19》
第99号
【「八月の残照(後篇)」杉崇志】
太平洋戦争で、兵士になっていた父親の人生を追うなかで、子供が自分の父親親探しをする話がメインなのか。
【「叔父の手記」えひらかんじ】
叔父・河野数之の「生き残るの記」の手記を派遣する。1946年から結核にかかり清瀬の療養所に入所。当時は死に至る病であったが、ストレプトマイシンの製品化に間に合い一命をとりとめる。そこからの人生が語られる。いわゆる額縁方式の作品であるが、おそらく実話であろう。記録的な意味を感じた。
【「ウエールズの父(一九三九年)」根場至】
山登りが好きな叔父の話。
【「曖昧な記憶」みやがわ芽生え】
既婚女性の家庭と離婚と、その元夫が交通事故にあって、いろろなことが起こる。しかし、記憶が曖昧であるという、そのままの話。
【「五十年後の復刊ー三木卓の『ミッドワイフの家」尾高修也】
三木卓の掲題にの小説が復刊されており、その作品への作者のこだわり方が指摘されている。よくその意味を考えてみたいものだ。文章をかけば小説になるというのは、天才のやることで、娯楽作品なら読者に時を忘れる面白さを、純文学なら、こだわることへの強さを求めたい。どちらでもなければ、ただの作文としか読めない。文章をくふうしてこそ小説になるのだがなあーー。ただ、最近の文芸というもの対する考え方の表れを知ることができる。
その他【「和解」笹崎美音】、【「トサカ」百目鬼のい】、【「マイ・ウェイ/和子の選択」根場至】、【「セロニアス・モンク」杉崇志】などがある。
紹介者=「詩人回廊」北一郎