澪・MIO
第20号
。石渡均の連載映画評論「狂った一頁」(原作・川端康成・衣笠貞之助監督)の多視点からの分析があって、貴重な資料であろう。大正のモダン時代の末期、昭和元年の作品だという。この映画についいて知識は持たないが、前衛映像作品の象徴的なものらしい。それにして、大正モダンの前衛作品が現代でも、前衛的であるというのは、これらは永遠に前衛でありつけるのであろうか。このほか同執筆者の「「澪20号に伯父おもう」があって、石渡とういう姓が、行軍で石を並べて川を渡るのが巧みであったことから、つけられたという話が面白い。そのほか「羽田低空飛行路の悪夢(5)」柏山隆基は、哲学者ハイデッガーの技術論と、羽田空港の路線変更の被害を、並論したものである。羽田空港の航路は、その後も変更があったらしく、低空飛行で川崎上空から羽田に向かう機体を目撃して驚いたこともある。哲学的思考については、わからないが、基本は米国との基地協定の米軍の要求でこうなったのである。同盟国とはいえ、人権基本的な人権を無視してよいのか、米国人の世論を動かす活動がたりないのである。その他、写真家の鈴木清美、んねんぞうの作品が冴えている。なんといっても、ビジュアルの時代で、国際性があるのがユニークである。また、HPサイトのほか、ー文芸同人誌「澪」のブログー を開始している。(ITO)
《文芸同志会通信》2022.12.18
第19号
【『雨月物語』「クラシック日本映画選―14―」石渡均】
読者として一番面白く読んだので、最初に紹介する。溝口健二という映画監督は、小津安二郎と並んで、なぜか世界的な評価が高いという話を聞いたことがある。その具体的な理由をゴダール、トリフォー、タルコフスキー、コッポラなどの海外映画関係者の名を上げて説明している。自分は、新藤兼人の溝口健二論を読んで、映画人の芸術志向精神の凄さというか、特異性を知ったことがある。それ以外に知識がなかったので、興味津々で読んだ。溝口の「女に背中を切られるようでなけりゃ、女は描けません」というのは、新藤兼人の話にも出てくる。脚本家の依田義賢の名から「スターウォーズ」の「ヨーダ」の名が生まれたなどという逸話にも驚かされる。溝口と田中絹代との関係も、取り上げられている。そして、日本の名監督たちが、なぜ西洋映画人に高く評価される理由も評者の石渡氏が指摘、制作ぶりを検証している。これは新藤兼人も触れなかった視点とポイントであろう。いずれにしてもその時代だからこそ作られた逸品の解説として優れているように思う。映画「雨月物語」などは、BSTVで再放送してほしいものだ。
【「緊急報告・羽田低空飛行路の悪夢(4)」柏山隆基】
本論は、哲学的な視点から、羽田空港の民間航空機の航路変更の被害を形而上学的に表現しようとするものらしい。ただ、羽田空港に遠くない住まいの自分にも、現実的な被害がある《参照:東京の空と日本の空=無関心ではいられない建て前と現実》。この問題の本質は、戦後の米国占領政策の延長である、米軍との非公開の日米合同委員会での決定から発生してるようだ。横田基地の米軍「アルトラブ」の存在が根本問題のようだ。筆者は哲学者のようで、フッサールやハイデガーなどの存在論と認識論ン展開がある。自分は、金剛経座禅道場に入門した時期があった。そこで、自己認識として、存在物が姿を変えるというのは、実態がない存在〈空〉の世界にいるからだーという理屈を考えたものだ。あまり理解されそうもないが、マルクス・ガブリエルの「新実存主義」論を読むと、だんだん自分の認識の方向に近寄った発想が生まれているのだと、感じている。
【「君が残したウインドーズ」小田嶋遥】
出版関係者同志には、仕事での繋がりが切れたあとでも、交流がつづくことがある。これは、パーキンソン氏病にかかった物書きの私と写真家らしい「キミ」とのパソコンのメールを通しての長年の交流を描いたもの。私の語りの手法が、キミの海外からの便りを挟み、二人の時間と空間の広がりを強める印象を残す。非常に個性的で、メールを通しての情報を効果的に生かす発想に感心した。病の進行で、先の見えるような立場を私小説風に設定しながら、現代的な特徴をもたせた短編。
【「川の二人」衛藤潤】
月華川という川の近くに住む「ふうか」という姉とこれから中学生になる健太郎という弟の生活ぶりを描く。川が氾濫する警報が出ると、酒飲みの父親にせかされて、近くの体育館に避難する話などが語られる。健太郎の父親と母親は離婚したらしく、「ふうか」母親と暮らし、健太郎は父親と暮らしている。町の浸水がかつての事件から、日常化した気候変動を取り入れ、現代性を反映している。「ふうか」の肢体の描写に力を入れ視覚的な面から、登場人物の存在感を強めるのに成功している。物語の視覚化と言えば、映画とコミックであるが、純文学をその方向に導く意図があるような感じもして、興味深かった。
その他、写真家の作品があるが、HPの作者ブログ各氏のものが見られるので、味わってほしい。
紹介者=「詩人回廊」編集人・伊藤昭一。2022.04.29
第18号
【映画「浮雲」-クラシック日本映画選―13」石渡均】
ここでの「浮雲」とは林芙美子の小説を成瀬己喜男監督が製作した映画である。自分は、成瀬監督の映画を観た記憶がない。成瀬監督は、林芙美子ののうち「めし」、(51年)、「稲妻」(52年)、「妻」(53年)、「晩菊」(54年)、「浮雲」(55年)、「放浪記(63年)と6本製作しているという。どうしてこんなに多く、林の作品を映画化したかの経緯は、この評論に記されている。そしてわかるのは、ドラマなりにくい、生活感覚や男女関係の機微を巧みな文章力で表現した林の作品を、その雰囲気の真実性を、選りすぐって場面化することに、手腕が発揮できたからであろう、という事が記されている。文章芸術と映像芸術の本質的な関係と、異質な関係が大変丁寧に描かれている。
幸い林芙美子の作品は青空文庫で読めるので、「浮雲」ここでは書き出しのところを引用するーーなるべく、夜更けに着く汽車を選びたいと、三日間の収容所を出ると、わざと、敦賀の町で、一日ぶらぶらしてゐた。六十人余りの女達とは収容所で別れて、税関の倉庫に近い、荒物屋兼お休み処どころといつた、家をみつけて、そこで独りになつて、ゆき子は、久しぶりに故国の畳に寝転ぶことが出来た。――
自分は、なぜ彼女の作品は、出だしで、主人公の生活ぶりに興味を抱くようにかけるのか、関心をもった時期がある。スピード感とエネルギー。さらに「めし」という晩年の未完の作品を読んでみるとよい。短い文章の行簡にある意味深さ。それらを読むと、もし映像かしたら干物のようなものになってしまうだろうと思わせる。しかし、成瀬己喜男監督は、その味を表現したのであろう。身につまされるように。
森雅之や高峰秀子など、俳優の活用と脚本の工夫など、文章に現象よる現象表現と、映像によるそれとの違いを、考えさせる勉強になる評論である。
【「まあるい大きな手」小田嶋進】
私は顎に一本髭が生えている。それが秘密で悩みらしい。どうってことないのに、何が問題か、思っていたら、私が思春期の女性だとわかった。お話しとして、構成順序を考えていない。断片集らしい。てコンビニ店の男の指の美しさに見惚れる。その他、つながりが前衛的な感覚の表現話。
【「風花が舞う」衛藤潤】
出だしが、「気がつくと、香織のことばかり考えている。」難しい短編の出だしの縛りと感じていたら、作者はそれを縛りと考えていないらしかった。それだけに散漫な印象。
【「こども居酒屋」衛藤潤】
そういうのあるのか、と思って読んだが、よく分からなかった。
その他、二人の写真家の作品はいい。「澪」HPで見られるものもある。
紹介者=「詩人回廊」北一郎。2021.11.02
第17号
本号には、石渡均氏の評論「七人の侍」(黒澤明監督)とマンガ「ねじ式」(つげ義春)という映像関連の比較芸術論の後編があるので、前号に続いて暮らしのノートITO《黒澤明とつげ義春の芸術比較論(石渡均)=「澪」誌(横浜)》
に、その一部を示した。これらは雑誌を求めて、全文を読んでもらうための手段であるから、引用が不十分でも仕方がない。自分が、なぜつげ義春を印象的に思ったのは、下水道に閉じ込められた「山椒魚」の話を読んだ時に、その感性が思想性をおびている。これはマンガで小説の純文学的成果を挙げたものではないか、と記憶があり、この切り口の後継者が今後出現するのではないか?という予感があったからだ。つげ義春の評論も少なくないであろうが、黒澤明の「七人の侍」との比較というのが、意外である。ここに、石渡均氏の映像に関する思想と感性の独自性があると思う。実は、つげの義春の後継現象は、コッミクの世界で、すでに存在していると、思っている。これは、文学フリマ東京で、文芸同志会員・山川豊太郎の漫画評論(「芦奈野ひとし『買い出し紀行』試論、「志村貴子『放浪息子』、「成人男子のための『赤毛のアン』入門」などをテーマにしている)を販売したところ、たちまち売り切れたことがあった。購入者にいうのには、コミックの評論は少ないのだという。「新世紀エヴァンゲリオン」評論なども、この系統であろう。
【小説ショートショート「眠れる夜のアンソロジー」鈴木容子】
人生経験が豊富なことがわかる多彩な掌編集である。どれも。身近なところから出発して、内容的に長く説明したくなるところを、読者に想像させる表現技が見事。「長い夜」と「口を開けて眠るのだろうか」は、切れ味の良い中編小説なみの内容である。
【フォトエッセイ「竜飛」/私だけのYOKOHAMA「人生を変えてくれた街」/小説「怪鳥」-んねぞう】
三作とも同じ作者で、どれもエネルギーに満ちていて、頼もしい表現力である。太宰治の故郷「津軽」のスチールは、寂しい風景に人の見つめる気配がにじんだ風情がある。横浜のエッセイは、自分もいろいろな思いのある処で、共感するものがある。ここに横浜サウンドというオーディオショップがあって、樋口社長が、「満員電車に乗るのが嫌で、商売人にになった」という話を聴いて思想家だと思ったものだ。「怪鳥」は、明日を信じる夢想家の自画像かも知れないと、思わせるところがある。
【緊急報告「羽田低空飛行路の悪夢(3)」柏山隆基】
羽田空港の離着陸の方向変更が、品川区や港区の市街地の上を低空飛行することになり、反対運動が起きている。その事件を、フッサールなどの哲学的な見地から解明しようとしているようだ。実は、羽田の地元、自分の住む大田区でも騒音などで、反対運動がある。この問題を区議会議員に問いだしたら、区ではどうしようもなく、都議会から国会まで上げていかないと、どうにもならないという。自分はマルクス系なので、国家権力から疎外された事件とみてしまう。東京上空が米軍の管理にあるということで、羽田の発着回数を増やすために、米軍から空路使用範囲を広げてもらった結果、その範囲で増便する結果らしい。この論で、フッサールの認識論のなかに、「生活世界」という概念があることを説いている。知らなかったので勉強になった。自分は、4度目の転居で、今は多摩川を挟んで、向かい側の川崎市が見える川に近い共同住宅にいる。コロナで、航路が空いている飛行路のはずなのに、航空機の騒音があるのである。住民に騒音に慣れてもらうために、やっているのか、と勘繰りたくなる。
【写真「鈴木清美作品集」鈴木清美】
ブログにあるカラー写真で数々のコンテスト受賞作が見られる。本誌では「のこんの月・残月とカラス」が、すごい。見事。
紹介者=「詩人回廊」編集人・伊藤昭一。《文芸同志会通信2021.05.043》
第16号
本号では、映画の世界で、監督論や伝説的なエピソードの多い黒澤明の代表作といえる「7人の侍」を軸にした評論を石渡均氏が、連載しはじめたので、話題性と資料、視点の斬新せいから、暮らしのノートITO《石渡均の黒澤明とつげ義春の芸術比較論=「澪」誌(横浜)》で、まず、紹介した。
【「ある歩哨」衛藤淳】
自衛隊に長く勤務したベテラン曹長の独白体で、訓練で歩哨に立つ。その間の思案や、新人隊員とのやり取りが、軽妙な語り口で描かれる。実体験があるような感じがした。歩哨と穴掘りの行動を、自分は慣れ切って、気が入らないが、あとからやってきた新入隊員は、張り切って熱心に行う。本来の他国の敵兵から自国を守る自衛隊。敵がやってきて、武力を使わせてからでないと戦えない軍隊に、長く務めるということは、どういうことかという、曖昧さの意味を問うような、また、文学的な寓意を含ませたような、奇妙な味のある作品である。
【「私だけのYOKOHAMA どっこい生きている!第4回―街のお豆腐屋さん(旭区)青木栄一氏」石渡均―文・写真】
大変良い企画で、地域内の街と住民の高齢化の進展にどう向き合っているか、正面から聞き取るインタビュー記事である。地域のリトルマガジンの性格を作り上げる企画としても意義深い。
【Twitter小説「ネコネコ星の話」片瀬平太】
世の中、猫ブーム。そこに焦点をあて、「ネコネコ星」から来た猫に地球が乗っ取られているという設定で、既定の語数で話を語り、つなげていく趣向。SF的狙いは面白い。が、このような現実をなぞるような、内容であるなら、SFにする必要性が薄い感じがする。読者層の関心をかきたてる努力は、素晴らしいが、ツイッターの読者がどれほど、ついたかが知りたいところ。言いたいことが、多くあるのに言えてない感じ。
【「緊急報告―羽田低空飛行路の悪夢=コロナ災禍を受けて=」柏山隆基】
羽田の航空路の変更に対する違和感を、哲学的思考で話題にし、今回はコロナ禍の話題に至る。話は、新型コロナの発生源とされる中国の世界制覇的な政策対応に触れ、そこからパンデミックを、ハイデガーの技術論から論じている。自分は、大学で資本論経済学の専攻
だったため、マルクスの関係論から、発想している。マルクスの社会発展論の初めに、原始共同体論がある。まず自然と人間の関係の始まりとして、農耕における不確定な関係を視野に捉えている。それは、資本主義で発展した人的契約的関係でなく、きまぐれな自然に人間は、技術をもって、予測できる関係に作り上げたと見る。パンデミックは、本質的にその自然である。この事態に、世界各国が無策のように見えるのは、人間関係の契約的関係から外れているためであろう。ワクチンは、自然の不都合な部分を調和させるための技術である。ハイデガーの存在論が外部との関係性をどう解釈しているか知りたいところでもある。そんな感想を持った。
【「林檎亭」鈴木容子】
若い女性が、英二という20歳の若者(年下であろ)との関係を語りながら、現代の風俗を語る。オチらしい工夫がある。説明が面倒なのと、感覚が古いので、語れないが、文章が冗長なので、簡潔に流れをそのまま維持するところに、工夫の余地がありそう。
紹介者=「詩人回廊」編集人・伊藤昭一。《文芸同志会通信2020.12.03》
第15号
【「春が来た春が来た」衛藤潤】
文学的な工夫がなされた作品である。語り手は、「私」や「僕」と「彼」といった人称を一切使わない。もうひとつの工夫は、飼っているメダカの世話の詳細である。物事を詳しく語ることは面白いに通じる。話はフクちゃん(女性)からメダカの飼い方を教わって、飼い始めたメダカの様子と、その心理が述べられる。そして、フクちゃんと別れるまでの物語。もう少し、話が盛り上がる仕掛けがあれば、とも思うが、短編なのでやむをえないか。面白く、文学性を発揮しているように読めた。。
【「自分じゃないジブン」片瀬平太】
これは、現代のティーンネイジャーからヤング世代、いわゆるギャルの女性の手記という形式で、乱れた生活と、それを他人のように眺める自意識を語る。彼女らの世代の用語の翻訳的解説があるのが、現代人が技術の進歩の段階で、文化的な分断ができていることを示すことで、興味深い。
【「リレーエッセイ・わたしだけのYOKOHAMA-第3回大倉山界隈(港北区)」鈴木容子】
地元である街を散策する会があって、そのメンバーとして、街歩きをしたポイントとしての歴史的な経過がわかる。散策の会のメンバーはほとんどなくなってしまったという。自分の若い頃の昔、鶴見川を渡って、日立製作所の工業専門学校に通う友達がいたので、台風の季節になると、氾濫し渡れなくなる話をよく聞かされたものだ。今は、遊水地ができて洪水にならなくなったようだ。
【緊急報告「羽田低空飛行路の悪夢」(1)柏山隆基】
自分は、大田区のほとんど神奈川寄りに住んでいる。当初は、自分の区域の頭上のことなので、まず区議会議員に対応策を聴いた。すると、これは地域の政治問題ではなく、都議会でも問題解決能力はなく、国の問題である、ということであった。そこからさらに、東京の上空が不平等な日米軍基地協定の存在が根底にある、ということを実感してきた。本編では、これまで、ハイデガーの存在論を論じていた筆者が、生活的な問題に筆を伸ばすことは、大いに意を強くするところである。現在、コロナ対策で、航空路がガラ空きにもかかわらず、不必要な、新滑走方向を試しているという官僚の行い。これはまさに、二イチェのいう「畜群」という存在であることを、分かり安い事例として示したいものだ。
【「クラシック日本映画選―10-『用心棒』」石渡均】
黒澤明と三船敏郎のコンビの傑作「用心棒」に関する製作者側の、特にカメラ撮影における技術と、効果的な画面編集の工夫を詳しく解説している。特筆したいのは、見どころの脚本の抜粋と、主役だけでなく、脇を固めたベテラン助演俳優たちの詳細が記されていることだ。仲代達矢が黒澤監督の注文の厳しさにうんざりしていたことや、三船敏郎の迫力のある立ち回りの秘密を明らかにする。また、助演たちの多くは亡くなっている。加藤大介、志村喬、河津清三郎、東野英治郎、藤原鎌足、渡辺篤、山茶花究、などなど。彼等が画面に登場すると、躍動間で雰囲気が盛り上がる。そして、原作を使ってマカロニ・ウエスタン「荒野の用心棒」ができ、クリント・イーストウッドという映画人を生み出した。とにかく読み応えのある解説である。ここには、記されていないが、黒沢監督作品では、脚本に橋本忍と、菊島隆三が絡んでいると、活劇として精彩を放つ。黒沢単独の脚本映画は形式美の追求で静かなものが多い。さらに「用心棒」の構成には、ハードボイルド作家、ダシル・ハメットの「血の収穫」に似ている。ハメットは、「血の収穫」の前に中編「新任保安官」を書きそれを長くしたのが「血の収穫」である。また、主人公の行動原理として、用心棒の「桑畑三、四十郎」は、ハメットの「ガラスの鍵」の主人公、ネド・ボーモントに似ている。ハメットファンをも納得させる映画である。
その他、鈴木清美氏の写真は、ホームページからも鑑賞できるはずだ。
紹介者=「詩人回廊」編集者・伊藤昭一。2020年5月4日
第14号
本誌の【「大池こども自然公園生態系レポート<放射能と野鳥編>」鈴木清美】に関しては、放射能汚染と野鳥の生態を自然公園に観る=鈴木清美氏 に紹介した。
【「クラシック日本映画選9-天国と地獄」石渡均】
今回は、黒澤明監督、三船敏郎主演の映画「天国と地獄」を制作側からみた、一種の専門的な裏話が記されている。黒澤映画と言えば、世界的に有名だが、その特徴のひとつである証明の技術による表現効果の秘密が記されている。集中的な画面効果の技術に証明やカメラの工夫があることがわかる。かつて映画界で天皇と呼ばれたのが、渡辺邦男、黒澤明、撮影監督の宮島義男だという。宮島撮影監督は、小林正樹監督の「切腹」を撮ったひとだという。個性的なカメラワークに頷けるものがある。俳優論があって、黒澤の演技指導の細かさに対し、溝口健二は、俳優に自ら役作りを発見させるという、やり方の違いがあるという。この辺は新藤兼人の書き物と一致する。また、面白いのは、三船の滑舌の悪さで、それを気にした小林正樹監督は、たまらず音声修正技術を使ったら、三船が腹を立てたという。確かに、彼が黒澤映画によって、世界の大スターになった要因には、映画のセリフが翻訳字幕や吹き替えの効果があったように思う。自分が思うに、黒澤と三船の作日には、セリフの字幕を付けて初期作品から上映したら、若い人たちにも支持されると思う。特に菊島隆三の脚本が入ったのは、すごい。
本作では「天国と地獄」の脚本、カメラ、音声、音楽、三船、仲代達也、山崎努など、総合芸術の見どころを、まるで観賞しているような話の運びで、読む目をそらさせない魅力でかたる。自分は、20代の頃仕事場が京橋に近いところにあって、今は国立アーカイブ館の前身と思われる近代映画館に、夜に観賞した時期があった。小津安二郎の無声映画から観た記憶がある。黒澤作品では、「酔いどれ天使」の水たまりの前で、結核を病む三船が塀に寄りかって佇む場面はまさに、孤独の詩情があふれているのを思いだしてしまった。
【「ハイデガーを想う(Ⅱ)下(その3)『技術への問い』を機縁に」柏山隆基】
「存在と時間」が愛国者でドイツナチスの党員であったことは、知られているが、その精神的な基礎に時流と彼の思想の底流とが、合流したものらしい、とわかる。ハイデガ―が「老子」に親しんでいたということは、東洋思想のなかに、存在の意味をさぐる価値があったと読んだ。自分は、道元禅師の思想をドイツの学者が時間論にとりあげているのを読んだ記憶がある。自分は日常生活は、マルクスやヘーゲルの重視する関係性の世界だと思う。そして、個人としてはそれを超越した形で、宇宙存在の認識者としての生を味わうものという感覚があり、一般人としての有象無象(マルチチュード)と「私」としての唯一者との間を行き来する存在と認識する。このような簡単にまとめてしまうのも、マルクス主義から「金剛般若経」の座禅思想まで触ってしまう文学的性癖による。自己流の読み方なので案外、見当はずれなのかも知れないが…。あとがきに、羽田飛行場の空路が品川区上空にかかるので騒音の話があるが、大田区でも海から滑走路に入るのに、それが多摩川の川崎に寄るので、すでに試験飛行をしているらしく、こちらの空に爆音が響くようになった。これも、日米航空協定が、他国と比べ格段に隷属してるためで、アフガニスタンですらこんなに隷属的な協定ではなく、対等な協定をしているのである。これを屈辱とせずに、他国をとやかくいう国民性が自分は好きでない。他国の反日の言い分はもっともである。また、国際的にも日本はそれほど信用されていないであろう。国際紛争で争っても、日本は負ける。それは、これからあらわれてくるであろう。ハイデガーのナチス党員時代にとやかく言う気はまったくない。
紹介者=「詩人回廊」編集人・伊藤昭一。