文芸中部
第120号
【「『東海文学』のことどもから(13)」三田村博史】
地域の有力同人誌であった「東海文学」にまつわる文壇人脈から、作家、編集者の関わり合いを記す。特に音楽家の坂本龍一の実父である編集者故人・坂本一亀に関する逸話、雑誌「作品」や「海燕」の編集者の寺田博しなどの、関係の経緯が記されている。文芸雑誌は、編集者でその個性が発揮される。であるから、本稿での文芸同人誌「東海文学」が、どうかかわって、どのような経緯で、文壇編集者との関連が絶たれた様子には、興味深い深いものがある。基本的に、商業文芸誌と文芸同人誌は、編集時の意図が異なるのでなるので、文学的であるいうことでの類似性を過大に評価するのは、適切でないと思う。そうした事情も読み取れるのでよい資料である。
【「闇を透かす」本興寺 更】
江戸から東京へ、移行したばかりの時代。あまり描かれない時期の時代小説である。時代考証もきちんとしている。武士の娘であるお紗登と、武士精神が抜けない父親の存在と、母親などとの家庭の調和を軸に、彼女に起きる出来事を描く。時代考証など、相当調べて調べあるのであろう。せっかくだから、この時代をうきぼりにして、若者向けに、転換期の姿がよく理解できるような解説書を書くような意図をもったシリーズにしてみたらどうであろう。プロデューサーが欲しいところだ。
【「バタフライ・ガーディン」西澤しのぶ】
弟は、小学生一年生で、私は六年生。町内会でアサギマダラという蝶のくるようなバタフライ・ガーディンを作る集いがあることを知る。その集いで知り合った茶髪の子が、大人から虐待をうけているようなのだ。そこで警察に電話して、詳しい事情がわかる。子供の視点で、アサギマダラ蝶の謎を啓蒙する意味のある短編。
【「おれたちの長い夏」朝岡明美】
昔、高校の吹奏楽部の仲間たちが集まって、思い出話をする。
---その他、「ずいひつ」欄が-文芸時評や高齢者の生活ぶりを記したのが、身に迫って興味深い。
紹介者=「詩人回廊」・北一郎。《文芸同志会通信2022年9月15日 》
第119号
【「クローゼットの中の家族」北川朱美】
ある日、井口直子が家に帰ると5日前からいなくなった飼い猫の死体が、ダンポール箱に新聞紙にくるまれて、送られてきた。中に手紙が入っていて、道端で車に轢かれて死んでいたのを見た人がいて、首輪に書いてあった所番地を見て、送ってくれたのだ。その後も、直子のペットロスの気持を慰める手紙が来る。見張られているようなのだ。スリリングな出だしなので、大衆的な読み物かと思ったが、必ずしもそうでなく、ストーリーの設定など、一筋縄ではいかない話になっている。この猫の事故死の話には落ちがあって、30年前に子供が事故死した経験のある老人が、ストーカー的なことをしていた、というもの。それに付随して、その老人の悲しみを純文学的に描く。いつまでも、こだわりを持ちつつ生きた老人の姿が印象に残った。
【「ベルリン夢二式」西澤しのぶ】
竹久夢二が欧州で何をしていたのか、謎めいた部分を小説している。なるほど、そういうこともあったかもーーと思わせる・
【「二色の瞳」大西真紀】
母親から、亡くなった祖父の飼っていたツキという犬を引き取る羽目になった話。真面目にその後のことを語っている。題材はいいが、語りに面白さが少ない。そこが残念。
【「曼珠沙華」朝岡明美】
梶浦亮介という男の身の上話。自分は純文学通でないので、これしか感想が出ない。通俗小説なら、人物が立ち上がらないというところだろうが、それも本作に当てるのは的外れのような気もする。
【音楽を聴くー88―バッハ「ゴールドベルク変奏曲」堀井清】
音楽の話のほかに、最新の文学動向についての感想がある。読者としてついていけない側面を指摘する。全く同感であるが、もともと個人の趣味の多様性から、仕方がないと思う。
【「東海文学のことどもから(12)」三田村博史】
これが一番面白い。「東海文学」が同人誌の枠を超えて中央文壇と接近していた時代の事情がよくわかる。また、作家・吉村萬壱氏らしき人の地域的親密さ、現在活躍の同人の過去など、なるほどと理解する絵解きにもなっている。
【「千の五年」広田圭】
時代小説で、江戸にコロリ(コレラ)が流行り、治安が乱れて、打ちこわしの「いいじゃないか」連を装って、米問屋からコメを盗む連中が連続して跋扈する。それを与力の山の井が解決する話。話にスピード感があり、娯楽小説として良くまとまっている。良い出来だと思う。
【「花泥棒」堀井清】
老人の余生を描いて、その心理を浮き彫りにする。リアルさよりも話の流れと問題提起で、考えさせる作品。相変わらず巧い短編である。俗にいえば、暇つぶしに困った老人が、似たような境遇の友人から万引きをしようと誘われる話。人が生きるには、何らかの欲望を持つことが必要で、そのひとつに万引きの緊張感への快感があるということか。
紹介者=「詩人回廊」編集人・伊藤昭一。2022.05.12
第118号
【小説「闘病記」西澤しのぶ】
他にも、触れるべき作品があるのであろうが、今はこの作品について紹介したい。「闘病記」とあるので、コロナ禍の同病の読者たちに参考になるようなものだといいな、と思いつつ読み進めた。そして、その出来の良さに仰天した。まず、手術の麻酔から目覚めるところから始まる。その心模様が冷静にさりげないユーモアをもって語られる。まさしく手記を装った小説である。病名を告げられ、手術のための入院で、その説明も手際が良い。読み返してみてもここかから文学性に富んだ作品にする案が潜んでいたことがわかった。虫垂炎手術から腎臓がんの発見まで、ダビンチという手術マシンを活用する話。症状面では医師が読んでも納得できると思わせる。同時に、語り手の心理と、家族の対応など、じつに分かり易い。そして、幾度かの手術をする患者の心理も自然である。それよりも、その間に語られる文学とその解説力に、おどろかされた。パンデミックの歴史から、カミユの「ペスト」、ナチスのユダヤ人迫害、北朝鮮の米国青年の脳死状態での送還。それに対するユダヤ系米国人の報復。旧約聖書のアブラハムの話から、キリストが磔にされて叫んだという神への言葉、ドストエフスキーの神への問いかけ、その他文学的な蘊蓄の全身体当たり的な披露ぶり。読んで暫く心奪われ痺れ、茫然とした。とにかく一読を推奨する作品である。
【「光線画」本興寺更】
江戸時代の浮世絵師に弟子入りし、丁稚奉公的な修業をさせられるが、あまり才能も修業意欲も普通で、自分探しをする若者の生活を描いたように読めた。小説として終わっていない感じもする。時代考証的には十分な知識があるようだ。
【「閉ざされて」朝岡明美】
コロナ禍の夫を亡くした高齢者、貴子の生活。香苗という義理の娘と同居している。去年の春、香苗が仕事を辞め、貴子は任されていた家事から解放され、嫁姑の二人暮らし、とある。まず、これで充分。余計なことを読まされて、誤解しそうであった。どうやら貴子のまだら認知症になったところまでを描いたものらしい。認知症やがんなどは、いつから病がはじまるか、境目がわからない観念的なものなので、もう少しはっきりとした現象にしたら、もっと良いかも。そのことを研究して迫る意欲があればなあーと思う。
【『東海文学』のことどもから(11)】三田村博史】
「文藝首都」から「東海文学」さらに「文芸中部」に連なるエピソードが記されていて、大変面白く読んだ。自分が高校生の時には「文藝首都」は書店で売っていた。見つければ買って読んでいた。名前を忘れたが、自己存在を否定するテーマで書く作家がいて、印象的であった。また、当時、長谷川伸の「大衆文藝」とかの雑誌も売っていて、そこに載っていた平岩弓枝「鏨師」が直木賞になったのには驚いたものだ。同じ作品なのか、確かめてもいないのだが。
【「水の上を歩く人」藤澤美子】
四日市の教会をもつ家庭の物語で、公害のせいか、少年が突然死する話。物悲しい印象が強く残る。
【「そして桜の樹の下で眠る」楠木夢路】
母親が亡くなるが、その息子からすると、今まで知らなかったことが、次々と明らかになる。つまりは、息子の父親とされていた男とは、血のつながりがなかったのを知らなかった。周囲に人だけが知っていた。その境遇の悲劇的な背景がわかる。家族の血筋の話は同人誌に似たようなものが沢山書かれて居る。作者は、自分だけの話とおもっているので、書くのであろう。そうした、類似した話の中で、起承転結がはっきりしていて、桜の樹などのあしらいもあって、美意識の働いた秀作の方である。
【「極楽さま」潮見純子】
高齢の母親の人生が終わるまでの話。同様の話は、たくさん読んでいるが、素直でシンプルなのが良い。類似した作品のうちで良い作品である。
本誌を読んで、日本には、同人誌文学というジャンルが存在するのではないかと思った。「闘病記」も、文学的な専門性やセンスは、普通の人にはないものがある。しかし、商業性があるかといえば、それはなさそうだ。同人誌文学として、よく力がでているので、佳作に思うのである。冒頭の【「心のおに」和田和子】は、それはそうであろうが、ごく普通に納得でき過ぎるように思う。こうした作文よりも文学性のあるが、商業性はないのが同人誌文学の特長であろう。現在では、中産階級の趣味の集いとしての意義も生まれて来ているのではないか。
紹介者=「詩人回廊」編集人・伊藤昭一。
《文芸同志会・2021年12月17日・22日》
第117号
【「たった一人の孤独」堀井清】
作者は、本誌に毎号作品を掲載している。しかも、独自の手法を編み出し、そのスタイルを維持しながら、不出来がない。安定した水準を維持している。その手腕に感心している。今回は、「自分」という85歳の男の語り手が主人公。会話にカギ括弧をつけないというのは、いつもの文体である。例えば作者はーー窓をあけるよ、と女将さんがいう。/飯にはまだ早いよ、と自分は答える。――と平たく表現する。こうすることで、出来事が、語り手の意識内を通した現象表現となり、生々しさを失わせるかわりに、間接的表現性をもつ。同時に、思索的な側面を強くし、現実から距離を置いたように感じさせる。「自分」は高齢者であるが、生活費に困っていないらしい。ただ、やることがない。死を待っているようなのだが、表向き体調は悪くない。健康なので困っている。これは、「自分」の問題提起である。それでどうするのか? という読み手の興味に、同じアパートの同年齢の男を訪ねることにする。困ったからといって、死ぬの生きるの、ということはない。退屈しのぎの時間稼ぎに入る。人間、欲望が当面の問題忘れさせる。こうしてそれからどうしたという物語に入っていく。高齢者の晩年の問題に、解決の答えはない。しかし、小説である以上小説的回答は必要だ。作者は、どの作品でも、そうした要件を満たしている。これまでの作品にも、軽純文学として、読み応えのあるものもある。大手文芸雑誌の編集者は、2、3作を掲載してみる気はないのだろうかと、ふと思ってしまう。
【「怨念メルヘン」大西真これは紀】
これは、俺というユーチューバーの生活ぶりを描いたものらしい。最近はやりの自由業YOUTUBEの閲覧数を上げて広告収入を得る仕事である。作者には好なように書く権利があるので、どうでもいいことだが、俺が何でこの話をするのかが、わかりにくい。朝、目覚めたら、なぜ自分がここにいるかが、わからない、というのが出だしだ。乞いう設定だと、物語は意識不明の間に、なにか重大な出来事が起きていないと、面白くない。それが、いわゆる、問題提起になっていない。周囲の人間関係も、なまじ俺が語るから判りにくい。信用ができない。物語の骨子が漠然としている。俺がユーチーブの閲覧数の変化に、敏感でないのはおかしい。物語の一つのパターンに、何が失われていくことを、取り返すというものがある。ここでは、閲覧者が減るのを必死防ごうとする俺の話なら読む気になるかも知れない。スマフォであたらしい株をつくり、その売買をする企画などは面白いが、それに対する俺の態度がつまらない。九藤官九郎の失敗作のような感じがする。
【「わが社のいたち」朝岡明美】
変な新入社員がいて、彼の行動と性格を拾い上げる。場違いなとこころもある。社内の人間関係も絡めて、噂話をする。そのうちに、その新入社員が女性関係で失策していることがわかる。社内の女性観たちが、がやがやするところの書き分けは、巧い。ただ、物語が小さい。
【「『東海文学』のことども」三田村博史】
「東海文学」という同人誌の歴史で、主宰者の江夏美子が『文芸首都』出身で、1950年「南海鳥獣店」で新潮文学賞佳作入選、江夏美子の筆名を用い、1963年「脱走記」で直木賞候補、1964年「流離の記」で再度候補となったころの話。当時の文壇という世界に大変近い存在であったことがわかる。現在では、職業作家というのが、文芸同人誌の延長線上にほとんどない。その世相の違いを感じさせる。なかで、三田村氏が能の世界に魅せられていくところは、興味深い。
【「大きな子供たち」春川千鶴】
大人になっても、青春時代の体育部活の雰囲気を維持している様子が、活写されている。良いけれども、こういうのに詩情美を加えるのが、文学趣味なのではないだろうか。
紹介者=「詩人回廊」北一郎。2021年8月23日
第116号
【「雲の行く末」堀井清】
アパート住まいの高齢者である「自分」は、同じアパートの80才位の内海という男と時間つぶしに合っている。語り手は、60年前に地元の信用組合に勤務している時に、肥田という男に使い込みの冤罪を仕掛けられ、人生を狂わされてしまった。そこで、情報を集めてかれの住まいを突き止め、尋ねて行く。すると、彼はなくなっており、奥さんに会う。信用組合の昔の同僚だったと告げると、夫人は「夫は、信用組合に勤めたことはない」と言い切る。そこで、彼に人生が夫人に虚偽を言って、積み重ねた人生を送っていたことを知る。語り手の自分も、相方の内海も息子と縁が切れて、所在が分からない孤立老人でることがわかる。この人物は、人生航路を生きぬいてきたことを暗示して、事情は想像力に任せる仕掛け。結果的に孤独になり、生きる欲望を探して目的化しようとする男の晩年。どこかに居そうでいない、人物像を平均化した視点で眺めている。とにかくもっともらしい仕掛けをよく思い付くものだ、誰かがどこかで、経験しているような人生の有様を描き、興味深く読ませられる。
【「サウスウエストホスピス」北川朱実】
音楽療養師の涼子は、海と畑の見える緩和ケア施設での勤務を頼まれる。そこで、肺のがんが、胃と肝臓に転移した新入患者の担当をさせれる。余命いくばくもない人間の末期の姿を丁寧に描く。目新しさはないが、死と向き合った人間像を描いて納得のいく作品。
【「遅咲きの薔薇」朝岡明美】
1960年代の、全学連から始まった政治闘争にまきこまれたが、深入りするほどの新年もできておらず、まだ精神成長をしている時代に、主人公の目を通して、裕福で教養のる気位の高い女性と暮らしを共にし、女の人生の一断面を目撃し学ぶ。小説のテーマには、「この人の生き様を身よ」とするものがあるが、この作者は雅な人生を好むようで、その意味で一つの夢物語としてのロマンがある。
【「『東海文学』のことどもから(9)」三田村博史】
「東海文学」同人誌時代の江夏さんという作家の交際した川口松太郎、和田芳恵、安藤鶴男、瀬戸内晴美こと現在の寂聴など、著名人との交流記もあり、当時は文壇との距離感の近さなど、作家への道が夢にあふれたものに見えた雰囲気がよくわかる。三田村氏の長編小説が出版社から相談があったなどの事情も分かる。文芸同人誌作品と、有名文学賞と並べて話をする人達が存在する理由も理解できる。
【「北からの生還」本興寺更】
時代小説で、榎本武揚の函館新政府革命に参加し、敗北。江戸にもどって、日々の生活に追われる武士たちの姿。敗北感とプライドの残滓が、柔軟な思考を妨げる様子が描かれ、読み物として、大変面白い。歴史小説が欲しい雑誌があれば、売れそうな気がする。
【「音楽を聴く(86)チャイコフスキー交響曲第六番『悲愴』」堀井清】
毎回、楽しく読ませていただいている。前半は名曲鑑賞記で後半は、文学賞受賞作家の作品鑑賞記である。余談であるが、読むたびに思い出すのは、北一郎筆名時代に、DENONブランドPR誌に「キミの街のオーディオショプ」というシリーズがあって、クライアントから、名古屋無線という電気店があるので、その訪問記を依頼された。新幹線で日帰りの仕事であった。オーディオ専門店の試聴室紹介欄なので、ある程度のものがあると思って、店の特徴特長を聞くと、看板に、相撲の絵がかいてあるというのである。とにかくオーディオマニア向けの記事に無理に仕立てた。出来上った頁をみて、そこの販促営業マンが「よかった。やっぱり北さんは、なんでも作れるんだよね。前の人は、電車賃をかけていったのに、書けないというんだ。経費の無駄だったからね」とか、言ったのにはあきれたものだ。
発行所=〒477-0032愛知県東海市加木屋町泡池11-318、三田村方。
紹介者=「詩人回廊」北一郎。
《文芸同志会通信2021.4.21》
第115号
【「雨蛙」浅岡明美】
今は息子の家族と同居している「わたし」。庭の盆栽に蛙がいるのを見つける。年前に夫が病死し、しばらくそれまでのマンションで一人暮らしをしていた。ある時、乗っていた自転車にバイクに煽られ転倒。バイクの男は、気を付けろ、ババアと言って去る。高齢者扱いされた事に拘る女心。交通事故扱いになったが、男はわからずじまい。一人暮らしの危うさに、息子の説得で孫のいる息子の家で暮らす。一家がデイズニーランドに行くが、「わたし」は、留守番をする。家族と同居は、それなりに気を遣う。とにかく、修練した文章で、日常の中にある高齢者の意識をさぐる。蛙との出会いや、ひとさまからババアののしられて、事実を思い知らされた高齢女性の心の痛みと、こだわり。また、買い物に行って、出口が異なると、道順の感覚を失ってしまうエピソード。同じ書くのでも、エピソードのつなぎがうまい。予定調和的な温もりのある好短編である。以前もかなりの巧者という印象だったが、今回は話の運びに無駄がなくなった。文章表現は、修業によってますます向上するのかもしれない。
【「島帰り」広田圭】
時代小説で、人情話であるが、題材は絵師の長庵が、風紀を乱した罪で八丈島の流人にされてしまう。そこで周囲の援助があって、比較的恵まれた生活をするが、赦免が下るのを待つ辛さがある。そこで、お清という女を身近にして待つ。すると彼女が子供を産む。そこに後輩の若い絵師の玄雪の方が先に、赦免で島帰りすることになる。長庵は、せめてお清と子供を本土に行かせたいと、その筋に手を廻して、玄雪の妻子として、同行させる。その後になって、長庵も赦免され江戸にもどる。自分は、あまり時代小説を読まないのだが、じっくりと話を積に重ねて絵師のダイナミックな運命をもの静かにものがたるので、それからどうなる? と読み続けてしまった。今の時代小説の風潮というのは、よく分からないが、それぞれ得意とするジャンルを出版社に認められた人が作家デビューするらしい。自分も、かつて伊藤桂一氏の門下生であったので、時代短編を書いて読んでもらったことがある。テーマを現代についても通じるものを露骨にだして試作した。師の評は、なるほどねえ、きみも書くのかねえ。というだけで、うんも、すんもない。そこで、これはハズレだなと思って、諦めた。その後、森村誠一氏の小説教室出身で、上田秀人という新進作家が陰謀を素材に、次々と新書を刊行していた。集めた情報によると、日ごろは歯科医をしており、当時は片手間に書いていたが、3カ月には一冊出すくらいにして欲しいという、編集者からの要望で、相当の頑張りが必要なようだ。売れ出すと、先輩作家からの嫉妬もあるそうだ。「島帰り」は。そういう視点で見ると、全体の流れと素材に優れているが、筆の勢いというものが不足している。おそらく、藤沢周平の静かな語り雰囲気が好みなのであろうが、純文学と娯楽小説の中間の難しい道ではないだろうか。これだけの手腕があるのだから、もっと多くの人に読ませる工夫を求めてしまう。直木賞の西條奈加『心淋(うらさび)し川』は、6篇の統一的な短編集のようだ。同人誌の作品にも時代の風が吹いているのかも知れない。
【「蹌踉の人」堀井清】
現代の家族関係をリアルに描いた完成度の高い作品である。最近は、若者の立場を視点に、よろけるどころか、しっかりと描いている。我々の、とくに高齢者は、家族関係を伝統的なイメージでとらえているが、果たしてその関係対する意識は現実と大きくずれていないのだろうか。本来は大きなテーマであるのであるが、見逃してきたものを、よく見つめさせる作品になっている。身近でありながら、普遍性もあって、自分は注目作として読んだ。
【「影法師、火を焚く(第16回・第2部の4)」佐久間和宏】
これは、読むと面白いのだが、なにしろ大長編で、なんだか野間宏「青年の環」みたいに、読むのに根気のいる小説になりそうだ。
【「『東海文学』のことどもから」三田村博史】
とにかく、文壇の隣の関西の文壇的な雰囲気が良く伝わってくる。文壇に近い存在感があったのだ、と改めて思う。もし、こうしたグループが東京に存在したら、おそらくこの中から多くの純文学作家が登場していたのであろう。ただ、職業作家になって幸せになるということもないだろう。なるような境遇に追い込まれた人がなるのであろう。かつて名古屋方面に2度くらいメーカーの依頼で取材に行ったことがあって、その時にやはり独特の風土性を感じた。現在に至る状況は風土性のなせるものかとも思う。
【「ハピネス」春川千鶴】
これも、家族の姉妹と母親の関係と、繋がりを示して、人間の互いの批判性と肯定性を絵に描いたような構成で巧い。妹が結婚して、姉が独身というところから、妹が姉の立場を理解せずに批判する。すると、母親が妹を批判し、姉の立場を肯定する。まるで、夏目漱石が個人主義に語ったような問題的に触れるところがある。
紹介者=「詩人回廊」・北一郎。2021年2月 8日
第114号
【「あの日」蒲生一三】
あの日とは阪神淡路大地震のことである。その日の夜、「俺」は眠っていて、布団の上に家財道具が倒れてのしかかり、身動き取れない状態から、助け出される。救助隊の様子や、母親がまだ奥に主人がいます、といったことで、父親が埋れていることをしる。やがて父親は、血にまみれ命なくして運び出される。いまになってこのことをリアルに描き出せるのであるから、被災者のトラウマの重さを実感させる。かつて消防団にいたことや、様々な過去を思いおこす。そして、ある日、夜うなされていたことを妻から教えられる。その日は1月17日、あの地震の日だとわかる。トラウマはさまざまな形で心を犯すが、いうに言えない一つの事例として、うまく表現している。そうなのか、と感慨を呼ぶ。
【「月は東に陽は西に」和田知子】
紹介は省略しようとおもったが、感想を述べる。話の芯が斜めに移動するので、何が最大の問題なのか、わからない。登山仲間の山田の滑落が一番のテーマなら、そこに的を絞るべきでは。問題提起をならべて、書きたいから書いたでは、受け取り方に困惑する。
【「あなたにおまかせ」浅岡明美】
なるほど、そうなんですか、というのが読後感。孝也という男ががんで死んでも、読者には心に何の波動も起きないのである。
【「影法師、火を焚く(第15階・第2部の3」佐久間和弘】
全体像を不明であるが、部分だけでも読ませる話の運びである。エロい表現もあるが、これこれで時代に合った表現で、乾いた語り口に関心した。末尾には、調べて参考にした資料本が記されている。それだけのことはある。
【ずいひつ「シューベルト弦楽4重奏第一五番」堀井清】
毎回、音楽を聴く話と、現代文学作品の解説が合わさっている。今回は、第162回の芥川賞受賞作「背高泡立ち草」(古川真人)である。
【同「『東海文学』のことどもkら(7)」三田村博史】
かつては文壇というものへの登竜門が同人雑誌であった。そのころの三田村氏が文壇に上るのにその門に梯子をかけたがまで行ったような逸話がある。不運なのか幸運なのか、現在の立場にいる話である。面白いし勉強になる。
【「雨だれ」西澤しのぶ」】
洋樹という息子がピアノを愛好しながら成長し、その間に夫がギヤンブルで、身を持ち崩し離婚する。なにがテーマ考えてもわからない。ダメな読み手です。
【「東亰(とうけい)を駆ける」本興寺更】
江戸から東京にならい、武士という戦力が不要になって、大変な時代があって、その時期の人々の苦労が描かれる。調べが生きて、大変に勉強になる。そして、何よりも作者と作品の間にきっちりとした距離感があることだ。同人誌の作家に、作者との距離感がないと指摘するとよく反論される。反論しても無駄である。ないのであるから。
【「もうひとつの日常、または旅」堀井清】
ちょっと不良の老境の男が、街でみかけた中年女性をナンパする話からはじまり、それぞれ登城人物の孤独と世相をあぶりだす。括弧のない会話のスムースな落ち着いた文体で、どこまでも読みてをひっぱてゆく。こういうものがあると、文学愛好家の友人に読ませたい気にさせるが、その友人は故人となってしまった。
紹介者=「詩人回廊」編集人・伊藤昭一。2020年7月26日 (日)
第113号
【「裁判沙汰」本興寺 更】
文明開化が一段落し、明治になって、新聞の普及がすすみ、大新聞から小新聞まで時事ニュースや論調が読まれていた。本篇はその時代の小さな新聞社の記者の真三が、事件を取材する。シリーズ物である。今回は、村の農民と檀家寺の土地の支配権をめぐって、争いがあり、農民側が契約条項の解釈で敗訴する。農民の味方をする浄真という僧侶がその事態の一部始終を語る。題材は、当時の裁判制度で、興味深い書き出しである。中編と言えるほどの長さであるが、浄真の人物像に、魅力がすくなく、労多くして、物語の面白さという点での成果は期待したほどではない。歴史的な裁判の事例としての紹介に力点を置いたということらしい。
【「美しい村」西澤しのぶ】
アイルランドで牧師をしている「私」に日本にいる先輩牧師から、アイルランドの「美しい村」というところに、娘がいるので様子を見て来て欲しいと頼まれ、会いに行く。アイルランドの風物が描かれるが、所詮は他人の頼み事。そうでしたか、という読後感。
【「影法師、火を焚く(第14回)」佐久間和宏】
連載長編で、どこからどうよんでも良い感じだ。なかほどにいろいろなダジャレを含んだ帽子をかぶった人たち登場する。阿面帽や喰心帽、癌細帽、中世脂帽など、目無帽など、かなり創作性に富んでいるのが、面白い。
【「秋の夕暮れ」堀井清】
高齢者の「私」は、ある日、めまいを感じるが、医師に相談すると、重大な病気の気配はないといわれる。書店にいくと、そこで美しい同年代の女性が、俳句の本のコーナーにいたので声をかけお茶に誘う。いわゆる団塊の世代の少し前の世代で、悠々自適の人生をおくる人の生活を描く。作者は、多くの多難な出来事を無事に乗り越えてきて平和な時代に人生を過ごす高齢者の立場から書く。情感を抑えたクールな筆使いの独自のスタイルを確立している。そのなかに現代の世相の反映もある。エッセイ欄の連載コラム「音楽を聴く」(83)で、昨年、東京で開催の「第3回全国同人雑誌会議」に参加したことが記されている。そのなかで、同人誌の運営者のたちの団体としての活動への意欲と勢いについて意外に思ったとする。「少なくとも私は、今回の主要なテーマは、文学のあるべき方向をみんなで模索しようということだと思っていた。」――という。例えば<いま何についてどのように書くことができるか>といったことについて、討議するころだと思い込んでいた。――とも。
自分は、文芸同人誌というものは、同趣味の人たちのクラウドとしての懇親会のように思える。そのことで、一定数の人数の集団としての社会的役割があれば、そこに貢献すべきであろう。堀井氏は、純文学的な方向性をさぐるものとして、小説が自分探しの役割は終えた、と捉える発想のようだ。その意味では、人間は時代と共に、人間性を変化させており、自分探しよりも、人間性の変化の様子を探求するのは、純文学の果たす役割の一つであろう。不幸なことに、世界は新型コロナウイルスの大流行で、カミユの「ぺスト」がベストセラーになったそうである。第三次世界大戦争なみの共通素材と、問題意識を持つことになった。それにどう向かうかは、文学の世界では、個人の表現の問題であろう。いえることは、そうした問題意識の表現の主役ジャンルは、コミックや映画、ネット画像であって文学ジャンルではないような気がする。文学的には、国文学のジャンルと割り切って、その芸術性を発揮するのは、意味があると思うが…。
【「『東海文学』のことどもから」三田村博史】
「東海文学」という同人誌がどのような作品や作者が、中央文壇とかかわってきたかという、歴史が語られている。純文学系の同人誌と同人作家の系譜が読めて、大変面白い。同時に、文学ジャーナリズに馴染まないと、純文学作家として世に出られないということで、作品の品質とは別の問題があるということがわかる。
【「ガラス瓶の中の愛」朝岡明美】
高齢者を支援する団体に所属する女性が、ある高齢者の人生の終わりを見送る話。良く整っているが、もっとドラマチックな表現でないと、印象が薄いのでは。
発行所=〒477-0032愛知県東海市加木屋町泡池11-318、三田村方、「文芸中部の会」。
紹介者=「詩人回廊」編集者・伊藤昭一。《文芸同志会通信2020・4・22》
第112号
【「二番目の人生」堀井清】
息子と一緒に事業をしていたが、今は隠居している高齢者の生活ぶりを、独自の静かさをもった文体で描く。文体でこの作者の作品であることわかるという、希有な個性をもつ。これまで、作者が追及してきた、高齢男性の人生を二番目の人生として、普遍化した小説の完成形を目の当たりにできる。ただし、その前提に、生活が金銭的に不足がなく、さらなる金銭的裕福さを追求しない高齢者のケースという環境限定がある。
季節は冬。町内の役員をしている主人公。息子夫婦と出戻りした娘と同居している。息子の慎一と翔子は、夫婦の間に倦怠的な雰囲気がある。孫は、家を出て独立している。語り手は、嫁の動向に不審なものを持っているが、それに言及しない。夫婦で外食した際に、妻に自分と結婚して幸せだたかと訊いてしまう。それを失敗したと、思う。まず答えのない問いである。孫は、女関係の慰謝料に10万円を貸して欲しいと言ってくる。結局、貸してやる。公園に座って空を眺めていると、詐欺師のような男が誘いをかけてくるが無視する。語り手には癲癇の持病があり、死ぬ時には発作で発狂して死ぬだろうという予感がある。そのた家族関係にも多少の変化があるが、ここではどれをドラマチックに表現しない。底に流れるのは、時間と自己存在への意識である。作者は、ひとつの作風と形式を発明しており、一連の作品には、その時の気持ちによって、妙に読みたくなる持ち味がある。
【「影法師、火を焚く、(第13回)」佐久間和宏】
自由な発想による語り口で、話題にそって読み進むのに楽しめる。知らない詩の引用なども興味深い。なかでも「中論」の「帰敬偈」などは、現象の定まらぬ姿の本質とも思える空と無の世界をに思いを馳せるところがあった。
【「『東海文学』のことどもから」三田村博史】
「東海文学」という地域文芸同人誌がどのように中央文壇とのつながりをも持ったかを江夏美好の「下々の女」という出世作が出たことに、どれだけの出来事であったかを、如実に物語られている。中央集権制度の日本ならでは事例として、良い資料になっているのではないか。ここに語られた「下々の女」(河出書房新社)の初版が1971年で大阪万博の翌年である。自分はオーディオ企業のPR機関誌の編集取材のため、新幹線で大阪、名古屋。航空では博多、札幌と飛び周っていた。オーディオマニアというユーザーに音色の好みなど地域色があった。文芸にしても同じであろう。それも情報化の進展で、変わってしまった。時空の隔たりを感じさせる―――。
その他の作品も読んでいるが、紹介するためのポイントを書くことが出来なかた。こちらの感性の鈍りがあるようだ。本誌全体に作者が同人仲間だけに向けて書いているような、気楽な雰囲気がある。例外もあるが。すべての作品に共通するのは、渋滞がないということだ。巧さが増しているが、その分、惹きつける力が弱い。「水声」(和田知子)などは、鉄道の人身事故に遭遇する乗客のシーンからはじまる。読んでいて、それが問題提起だと思ってしまう。しかし、そうではないのだ。テーマは別にあるらしい。ただ、その違和感を打ち消す巧さもあるので厄介だ。「遠い日の花火」(朝岡明美)は、それなりに、「この人の生き方を見よ」という問題提起であるが、小説が短歌的になってきているのか、と感じてしまう。短歌にもそれなりの一的な感情を凝縮させる良さはある。自分は詩を小説に移行して、評論に向かっている。誰もが自分ならでものが書きたいであろう。その視点で考えると、紹介の仕方に迷うものがある。
紹介者=「詩人回廊」編集者・伊藤昭一。
第111号
【「青い季節」朝岡明美】
中学生の「ぼく」の視点である。家族の構造を描くといとうほどでもない。戦争の話も出るがのタイトルのとおり「ぼく」感覚の発露を表現している。
【「黒い蛇とワルツを」西澤しのぶ】
夫が浮気をしてるなかでの美幸は、息子の持ち込んできた黒い蛇の命を、結果的に助けたことになる。すると黒い蛇が超常現象を使って、美幸に恩返しをしたいといってくる。その蛇の化身に助けられ、家庭円満になる兆しで終る。超常現象とホームドラマを結びつけた点で、物語化に関する時代の傾向を感じさせる。
【「戯作者あがり」本興寺更】
明治8年に新聞紙条例が出来た頃の新聞記者の話。前号につづく読み切りシリーズである。今回は、北海道の樺太と千島にロシア人が入り込み、狼藉を働いているという事実がある。政府がそのことを国民に知らせていないということがわかる。いわゆる屯田兵を置いた時代のことである。しかし、新聞が政府に都合の悪いことを書くと、処罰される。すでに何人かの新聞記者、編集者が牢獄に入れられている。そんな時じょうほうを勢の時に、小さな新聞社の才助は、北海道の東京出張所の役人から、直接現地の情報を得る。役人は自分の首を覚悟で才助に情報提供したのだ。時代は異なるが、ジャーナリズム課題につては、現代とまったく重なるものを意識していることがわかる。大変読み応えがある。題材が良いので、長編に書くものがあれば、広く世に問うことが可能であろう。
【「『東海文学』のことどもから(4)」三田村博史】
読むほどに興味が尽きないが、ざっと流して書いているようなので、それぞれ深堀りしたものを読みたくなるが、この時代と現代との読者層のズレをどうこなすか、考えさせられる。たとえば、この同人誌紹介でも、作品の良い悪いを自分が評価したとしても、どれだけ一般性があるのか、まったくわからない。批判するにしてもそうである。だから、評価を含んだものが、少なくなる。さらに、自分だけの文学観もあるので、否定的な作風もあるが、それが世間的には良いのかも知れないのだ。
【「影法師、火を焚く(第12回)」佐久間和宏】
本来の大長編小説を同人誌に連載することは、難しいことだが、その意味について考えさせられた。
【「逃げていく」堀井清】
佐田武夫の家族が、軽自動者を使って、義母の見舞いに行った。その帰りに妻のゆき子が運転した。その途中で、妻は運転を誤り、歩行者と接触事故を起こすが、警察に届けずひき逃げをしてしまう。現在、高齢者のドライバーの運転ミス事故が多く、そのあり方が問われている。そうした意味で現代的な素材である。作品では、この事件を通した家族関係が、武夫の視点、息子の満の視点、ゆき子の視点で、現代人の孤独を独自の文章雰囲気を駆使して描く。
【「二兎追い」安田隆吉】
普通の小説として読み始めたが、これは体験記らしいと思い始めた。病気で身体的ハンディを持ちながら生き抜く様子がわかかる。時間的な経過説明に飛躍があるが、話に熱があり、読ませる。この飛躍は、現代詩的な難解さよりも優れている。
紹介者=「詩人回廊」編集人・伊藤昭一。《文芸同志会通信》