あるかいど

第72号
【「『巡礼』ソナタ・第2楽章」木村誠子】
 北海道を詩情豊かに表現した旅行記。作者は、磨かれた文学的な手練の持ち主とわかる。肩に力を入れず、思うがままのように、北海道を巡礼し、アイヌ民族の精神を反映した物語が素晴らしく、詩篇を挟んで、道内に潜む地霊を呼び起していく。語りの手順が整理され、思わず引き込まれてしまう。読みごたえがある。同人誌ならではの秀作であろう。
【「エキストラ」高原あふち】
 介護施設で働くあつみは、運悪くコロナに感染してしまう。そうすると、どのようなことが待ち受けているが、詳細に描かれる。そして、単なる体験的様式を超えて、人間関係やペットの関係が浮き彫りにされる。話の情感の起伏を表現するのが巧み。人情味あふれる気持ちの伝わる作品である。枚数調整力があれば、読み物雑誌に向いている。
【「明るいフジコの旅」渡谷邦】
 フジ子は介護施設で暮らしている。その様子を描き、自分の人生終焉を、介護施設から抜け出して迎える話のようだ。物語の作り方が、ぎこちないが、人間のある状況を描くという精神に文学性がある。
【「鳩を捨てる」住田真理子】
 母親が介護付きマンションに住んで、それまで住んでいたマンションが空き室になり、鳩が住み着いてしまう。母親は認知症で、連日、自分の金銭が盗まれるという妄想の電話を掛けてくる。その対応ぶりを細かく記す。話は一般的良くある出来事である。介護の段階は、まだ始まりの段階で、本筋はこれからであろう。文学性は濃くない。
【「面会時間(Visitng hours)」切塗よしを】
 市役所に勤める50代の男が、脳溢血で倒れ、係長の職を離れ、外郭団体の駐輪場の管理人をする。そこで、あかりという、薄命的な女性に出会い、交際をする。彼女はがんを患いこの世を去る。良い雰囲気の短編小説である。
【「明け烏」奥畑信子】
 結婚前の男女の結ばれるまでの話。それぞれの恋があるのであろう。
【「オーロラ」池誠】
 現代埋蔵金物語。話の仕方が面白く、眉唾しながら読まされる。
【「高畠寛」年譜】
 読書会のレジュメのために自筆年譜を記していた。1934年生まれ。自分は42年生まれだから、米軍空襲の記憶は自分より確かなのが、過去の作品に関して納得がいく。1982年「あるかいど」創設。2021年12月没。豊かな文学体験のひとであったようだ。寂しいものだ。
紹介者=「詩人回廊」編集人・伊藤昭一。《文芸同志会通信2022年8月31日》

第71号
【「ドラマ『宣告』を見直す」久里しえ】
  普通なら書評とみられがちであるが、これは小説的な文学作品である。その小説的な部分引用しよう。(前略)--自転車のペダルを全力で漕ぐことで普通の高校生でいようとした私の心に、犯罪者や精神症状を扱った「宣告」はすんなりと入り込んできたのだ。そして、忘れられないドラマになつた。/後日、意外なことが起きた。ドラマの中のあ.るシーンを私は繰り返し思い出すことになるのだが、それは件の死刑執行ではないのだった。恵津子が面会に来た峙に、房の中で他家雄が身支度をする場面だ。/不意に恵津子の来訪を知らされた他家雄の表情が、私の脳裏に焼き付けられた。それは、今にも泣き出しそうなチ供のようでもあり、うれしし過ぎてどんな顔をしたらいいのか分からない少年のようでもある。そのまま他家雄はタオルを絞って体を拭き、着替えをする。鏡も櫛もない独房で、精一杯のおしゃれをして彼女に会うのだ。/これが本当に、人を殺めた犯罪者と同じ人なのだろうか。こんなに純粋な心と、人を殺すほどの悪意が、同じ人間の中に存在しえるのだろうか。--(後略)。いいねえ、じつに表現力に優れている。ーー話の軸は、テレビドラマで観た「宣告」(原作・加賀乙彦)と、後日、本で「宣告」を読んだ印象の違い。俳優・萩原健一の表現力の凄さの比較なのであるが、内容は立派な小説になっている。自分は昔の話しかできないが、野間宏「真空地帯」の映画化で、木村功の演技と、軍隊の雰囲気が、実によく小説にせまっているのに、驚き、映画と小説の違いの認識を深めた記憶がある。
【「塀の外の空襲」住田真理子】
 戦争中の記録をもとに、少年の視点で、米軍の空襲の悲劇を記している。豊川市立八南小学校卒業文集「友だち」(昭和二十五年三月発行)、戦争中の暮らしの記録」(暮らしの手帖社)、豊川海軍工廠の記録―陸に沈んだ兵器工場」(これから出版)などと、知人の談話をもとに創作として書いたとある。この題材は、他の同人誌作家も創作化しており、その作品では学校にあるのか、校庭か忘れたが、天皇の御真影をおさめた泰安殿を、空襲から守るために駆け付け、被災死するという話になっていたと記憶する。いずれにしても、若者のなかには、日本が米国と戦争したことさえ知らなかったという者もいるそうだ。敗戦と称していれば、どの国に負けたのか、と考えるが、終戦というから、第二次世界大戦の結果としかとられないので、米国とは思わないのだろう。とにかく、この記録は、地元に貢献する良い作品であろう。ただし、歴史ものでも、視点を持たないと迫力に欠ける。
【「海には遠い」切塗よしを】
 認知症の祖母のリツを自宅で世話をしていたが、「ぼく」は、都合で彼女を特養に入居させることになる。そのことに、後ろめたさを感じるように書いてあるのが、特徴である。このババつき家のおかげで、結婚相手にも敬遠される。しかし、認知症の祖母への愛情は強い。リツが海を見たいというので、ある日、特養の規則を破って、その海に車いすを動かしてでかけてしまう。なんとなく、好感が持てる話で、自分の両親の介護の時期を思い出した。社会のなにかに抵抗していながら、それがなんであるか追及しない。そういうのって小説かな?と思う。散文詩的なのである。
【「『巡礼』ソナタ・第一楽章」】
 断片的なところがあるので、ソナタとしたのだろうか。文学的には巧い散文詩
に読める。
 次の作品を読み始めたら、NHKで直木賞作家のライブ報道があい、それを見ていたら、次の作品を読み終わる前に、中断したきりになった。申し訳ないが、後は省略させてもらいます。
紹介者=「詩人回廊」編集人・伊藤昭一。《文芸同志会通信2022年1月21日》

第70号
(その1)
【「卵を抱えて」高原あふち】
 本誌の常連同人で、同人雑誌作品として、優れた筆力を発揮している。今回は、子供のできない不妊治療をする女性の立場を、浮き彫りにしようとする意図が読み取れる。まず、不妊治療に至る夫婦関係から、現状を説明する。そこで、「私」の立場における読者の感情移入を形成させるところまでは、まずまず、の出来である。同人雑誌作品としては、大変良い部類に入る。その後も、不妊治療の悩む他の女性の姿も描く。いろいろな立場の状況を描き、結局は「私」は、妊娠の希望をもって努力をする話である。おそらく、同人仲間では、よく書けているという評価を得るのであろう。ただ、自分はこうしたものを延々と描き続ける人は、自分を表現者としてどうように考えているのかが見えない。べつにそれでよいのだが、せっかくなので、このままでは、小説の要件に欠けているということを、記して起きたい。まず、「私」を登場させ、不妊治療をしている出だしがある。そして終わりも、不妊治療を続けている。出だしと、終わりの主人公の運命に変化がない。横線にまっすぐ線を引いたようなものである。例は良くないか知れないが、ドストエフスキーの「地下生活者の手記」は引きこもりの人の話であるから、始まりと終わりにおいて人物の状況に変化はない。そのため純文学として、内容を波乱万丈にしないと小説にならない。だから、恐ろしいことが、沢山書いてある。しかし、普通の物語に期待されるのは、主人公の運命が、始まりと終わりで、大きく変化する活動があると期待して読む。したがって、小説家はどういう風に主人公の運を変化させるかを無意識に考えながら書く。この作品の中ごろに、不妊治療が成功する患者や登場する。これは、小説の手法では、主人公が妊娠できない運命を語るための印象対比の伏線とするのが普通である。この段階で、主人公は妊娠したものの、交通事故に遭うとか、それが夫の運転する善意の事故であったとかー、にならなければまずい。あるいは、何かの折に、性犯罪者に暴行され、妊娠してしまうとかーーしないと意味がない。この本編の結末ならば、知り合いに話は、書く必要のない出来事である。その意味で、自分には、自己表現の巧みな作品であるが、形式からして小説ではないように思う。別に小説家になること勧めるわけではない。形式に沿っているかどうかは、自分で判断できる。合評会などいらなくなるから……
【「ロウソクが燃えるとき」西田恵理子】
 思春期の出来事と、愛読していたファラデーの「ロウソクの科学」を読む話。この本は岩波文庫の薄いものを自分は持っている。物理学の魅力をこれで知って、勉強したことで、ノーベル賞を受賞した人もいる。いろいろな感じ方あるものだ。自分は、ロウソクの火がなぜロウから、生まれ、その後、どこに消え、どこに行ったのかが書いていなっかったので、物理学の世界と異なる発想を探した記憶がある。
発行所=〒545-0042大阪市西阿倍野区丸山通2-4-10-203、高畠方。
紹介者=「詩人回廊」編集人・伊藤昭一。《文芸同志会通信2021年7月14日》

【「卵を抱えて」高原あふち】
34歳の奈緒は結婚して5年目。待望の妊娠は2週間足らずで流産してしまいます。翌年から不妊クリニックを受診。途中2度の中断があり、3度目の挑戦までの主人公の心の変化や周囲の状況が書かれています。初期の周囲からの圧力や自己卑下など丁寧に描かれていて、詳しい治療内容と相まって説得力があります。夫との遣り取りや勤務先などの書き込みも自然で、無理なく作品世界に浸ることができました。母親の誕生の経緯がとても印象的で、命というものの本質が伝わってきます。ただ気持ちが切り替わるきっかけになる集団との出会いのエピソードに、他にはない作為的なものを感じました。終わり方も雑な気がします。他の部分の完成度が高いので、そう感じたのでしょう。
【「冬の邂逅」奥畑信子】
主人公の里子は離婚歴があり、40代半ばに10歳年上の壮一と再婚します。壮一は母親、息子と三人暮らしで、前妻は病死しています。里子はこの三人暮らしの中に入っていきますが、片意地張ることなく自然体で少しずつ馴染んでゆきます。その様子が、読んでいてとても気持ちいいんです。壮一との距離を縮めてゆく様子も、姑や義理の息子との遣り取りも実感を伴って伝わってきます。壮一は結婚2年目に事故で亡くなってしまい、里子は家を出ます。その経緯も、姑の配慮ある言葉がとてもいいです。平凡や普通とはいえない里子の人生ですが、生き方がすんなりと入ってきました。ただ壮一と姑である母親との不仲が気になります。一度、姑が里子に説明しようとするのですが、里子は「原因を知ったら、どちらかの肩を持つようになりそうで…」、「私、きっといい子になりたいんやと思います」と言って断ります。前妻との不仲が原因なのだろうか、とか想像してみました。
投稿者:ひわき 投稿日:2021年 7月 3日(土)15時46分7秒

第69号
パンデミック特集を組んでいる。エッセイや誌作品、掌編小説風の創作もあり、それぞれの事情が表現されている。そのなかで、いくつか紹介しよう。
【「拍手を送りましょう」久里しえ】ラジオを聴いていると、コロナ感染者の治療に忙しい医療関係者に、感謝の拍手を送りましょうという、呼びかけがあった。「私」は、ラジオを聴きながら、呼びかけに同調して、拍手をする。そういう自分は、テレビニュースで、米国や欧州で、出勤前の医療関係者に拍手をしてるニュースを見たが、日本のラジオ放送での呼びかけは、知らなかったので、驚いた。海外ニュースでは、それに医療従事者が勇気をもらった、という解説があった。だが、ここで日本の作者は、自分のしていることの不条理な部分に気付く。本来、こうした災害に、ただ拍手をして感謝するだけで、済ましていてよいのか。という思いをさせる数々の出来事に出会う。本当に拍手することしか、できないのか? そうでないかも知れないことへの不条理感が良く表現されている。
【「禍いの中」折合総一郎】デパートに長年勤めてきた誠一の、人生を短く語る。コロナに感染したら、高齢者が明日へも知れぬ立場に追い込まれる切実な心理を描く。誰でもそう思うであろう。
【「非日常のなかでの私の日常」高原あふち】バンでミックの世界に入ったことで、日々の出来事が、特別なものに受け止められる日誌的な記録。普通の出来事の書きとめのように思えて、結局は、閉塞感に満ちているのがわかる。物事、書いてみるものである。表現が出来上がっていく。
【「白い心」世花むむ】半年前に兄が28歳の若さで亡くなった。突然の心筋梗塞だった。その義姉が入院した。
お見舞いにいくと、夫を亡くしたのは、自分の気づかいが足りなかったからだと、罪の意識を語る。じつは、語り手のぼくも、その家族も、若くして兄が亡くなったのは、何かどこかに落ち度があったのではないかと内心では思っていた。その時、義姉の兄が、見舞いに来る。そして、亭主を死なせて、自分が病に臥すとは、はた迷惑をかけるな、というようなことを、彼女にいう。それを聴いて、なんでも他者に原因があるような発想に、怒りを感じ口論になる。その後、義姉は快癒するが、ぼくのなかに微妙な感じが残る。あれこれ考えさせる。人間の内なるものを思い巡らせる。ー「華奢人だということは覚えていた。だが、病院のベッドに横たわる義姉は、布団のふくらみもほとんどないほどだった」という表現に、感心した。
【「奈津の乳房」高畠寛】奈津という女性が妹の友達だった、従妹ぐらいの関係だったのか、とにかく思春期以前の時期からの異性の友達であったが、ある時、彼女の胸が大きくなっているのに驚いて、触らせてほしいというと、好きなだけ触らせてくれた。その親近感は、恋愛とは異なる肉親的な感情を育てる。二人が、親しいのが恋愛を超えたようなものであることを、大川という友人が見抜いたのか、奈津が好きだから、告白させてほしいという。しかし、大川の奈津への恋は実らず、ひとつの出来事で終わる。だが、この小説では、このような手順ではなく、大川も語り手も、年老いて親友であった大川の死から、年老いた奈津と再会するところから始まる。とにかく面倒な手順で語るので、余分な出来事がたくさん書いてある。苦労して遠回りした書き方をしているのは、作者の個性であろう。とにかく、語り手は、思春期に乳房を自由に触らせてくれた奈津が、自らの存在を全面的に肯定し、認めてくれた愛の持ち主であることを、書きたかったのであろう。よくわかる。文学であればこその作品かも知れない。よい作品であるが、形式としては、枝葉の多いところが、緩いような気がする。同時に、アートには根気が必要なのがよくわかる。
紹介者=「詩人回廊」編集人・伊藤昭一。《文芸同志会通信2021年1月 6日》

第68号
【「アフリカの手」木村誠子】アフリカ旅行記であるが、ただ行ってきました、という程度のものでなく、きちんと前人の書いたものを資料に掲げ、学習教材になっている。驚いたのは、アフリかの最初のイメージが、山川惣治のイラスト付き物語「少年ケニア」ということが記されている。自分も、海外に行ったことがないが、山川惣治のファンで、マサイ族や密林の動物に対する知識は、まさに山川惣治に教わったものでる。成人になって、その後年のアフリカ民族の暮らしぶりが、山川惣治の作品で学んだものと大きく変わらず、その作品の調べの正確さに、舌を巻いたものだ。作者が自分と同世代らしいことから、読み方が変わる。ここでは、アイザック・デネーションという男性名の女性の「アフリカの日々」(out of afrik)という本と、作者の紹介がある。その解説が面白い。さらに「わたしの夫はマサイ戦士」という本を書いた長松という女性と「沈まぬ太陽」の主人公、恩地のモデルとなった小倉寛太郎、「あるかいど」65号の佐伯さんの旅行記など、そのつながりが前半部で紹介される。後半分は、作者の視点によるマサイ族の取材記になっている。本位、前半と後半は別にして作品化した方が、文学的な固定化が出来たろうと思う。コロナ騒ぎのなかで、落ち着かぬ心で読み終えた。
【「ゆうべのコロポックル」久里しえ】コロポックルという座敷わらしのような幻想的な動物が、日常生活の中に登用する。多くを語る余地はないが、創作手法としては、現実的現象との融合性について、説得力が薄いと思う。いろいろ疑問があるが、そういうものある時代なのであろうと、感じた。
【「ゆずるゐぬ」切塗よしお】家の井戸水が突然枯れる現象が起きる。同人誌小説特有のといっていいかどうか知らないが、テッセイという名の主人公の話である。しかし実質は一人称小説で、これが多層化し話の構造をわかり難くしている。テッセイは犬を飼っている。名はユズルである。良いところのない犬を譲る広告を出しているが、もとからそれほど手放したくないという心理が浮き彫りになっている。犬のユズルは、飼い主そのもので、取り柄のないさは、そのままである。いや、テッセイは遺産を相続して金があり、資産家をするのが仕事のようだ。資産家と結婚したいという女性がでてくるが、彼女との縁は失われる。そして、実在してもしなくても良いと思える人生の姿を描き、批判的にひねってみたのか。犬を手放すと決めたときに、枯れていた井戸水が復活する。どういうことか考えさせられる。
【「くるり」高原あふち】 語り手の中心となる加奈子という女性は、父親の妹だとかいう関係の女性である。すでに突然の病で亡くなっている。ところが四天王寺にの縁日で、(夫が同行してたか)お経を何倍にもして唱えることになる転法輪を廻すと、途端に加奈子との縁日見物や、その他の交流していた世界に入り込んでしまう。読み進むうちに、読者は加奈子と共に過ごした語り手の時間を味わい、切なくしんみりとした気持ちになる。また、縁日というのも、人間がありふれた日常に、華やかさを付加する営みであり、こうした情景を選び出す作者の感覚に才能を感じる。関西人らしいあざとさを持てば、多く読者の共感をえられそうである。いわゆる日常平談的な文章で、これだけの表現力を発揮することに感銘を受けた。
【「冬隣」奥畑信子】冬隣というのは、俳句の季語だそうである。内容は、高齢者の日常と回顧になっている。俳句の解説から始めたほうが、情感が伝わるのではないか。
【「牛乳ごはん」西田恵理子】夢のから始まる出だしが快調であるが、そのあとは、短歌や俳句をいくつか並べ書きすれば、省エネになるのではないか、と思わせる。「冬隣」にも同じことを感じたが、それぞれもっともである事情が記されているのである。2作とも、同人誌仲間から、変だと指摘されることがないように書いたという気配を感じる。
【「わたしのアキラさん」泉ふみお】世間でいういわゆる知的障碍者のアキラさんは、喫茶店で働いている。語り手の「私」は、子供の時のポリオの後遺症で、歩き方がぎこちなく目立つ。いじめもあったのであろう、不登校になる。それから福祉障害者センターでボランティア活を動をするようになり、根の明るいアキラさんに出会う。その人物像の描き方がうまく、読んでも好印象を感じる。「私」とアキラさんの恋愛物語であるが、楽しく読める。関連することがらの調査も必要であろうが、よく消化されている。
【「万力」池 誠】謄写版といえば、かつて簡易印刷として親しまれたガリ版刷り印刷機の道具である。懐かしいものがある。その謄写版の製作のために万力は、たくさん必要だったとある。その商売も、東海道新幹線の開通のころになくなったそうだ。時代の資料としても、興味深い作品である。
【「潮夏(しおなつ)」高畠寛】主人公は幾度か北海道を幾度か訪れている。中学2年の夏休みにそこの祖父の家に滞在する。そこで、同年代か紀子と出会い思春期の恋愛に発展する。過去のことを現代時間に引き付ける冒頭の運びは素晴らしい。そこでは、三島由紀夫の「潮騒」を思わせるようなロマンが描かれる。その後の話は主人公の日記から、追想するのだが、彼女は別の人と結婚し、祖父の家はなくなり、紀子の心を謎とする語り手の想いで終わる。硬質な文体のなかで、ロマン性のある文芸性に富んだ小説である。
【エッセイ「事実が物語になるとき」佐伯晋】いろいろな文学者と大阪文学学校の関係が述べられている。このなかで、長谷川龍生とは、東京中野の新日本文学会の講座に通っていた時に、講師だった。他に針生一郎や、菅原克己だったかな、幾人かの講演者がいた。当時、詩を書いていたが、針生一郎には、文学性のある文章とは何か、について学び、長谷川龍生には、山手線の原宿あたりに皇族駅というのが無人で今も形だけある、という話を聴いた記憶がある。なにか質疑をしたように思う。その後、新日文の関係者を見て、こりゃだめだと思い、夜間大学に通うことを考えた。それから、幾十年たって、「騒」のメンバーの誘いで、秋山清のコスモス忌の集いがあった。神楽坂にいったら、長谷川龍生氏が来ていて、話しかけると、大阪文学学校の校長だか、理事長だかをしているという。ほかにも、詩作から小説に展開する話などあったが、とにかく印象の強い詩人であった。
紹介者=「詩人回廊」編集人・伊藤昭一。2020年8月22日 (土)・23日(日)

第67号
【「その風は蒼ざめていた」切塗よしお】中年男女の同居人関係が、女性が妊娠して結婚に踏み切るであろう、お話。物語の軸は、彼が競馬のビギナーズラックのような感じで、大当たりして大金を手にする。そこからさらに馬券を買う。書いていて張りがありそうで、退屈しないで読める。文学的にどうであるかとなると、同人誌で小説が楽しめるということが、こちらの意識に浸透してきているのかも知れない。
【「馥郁」高原あふち】施設に入所しているキトという80代の女性の暮らしと、その生きる姿を的確に描き、読者に襟をたださせるような趣のある作品である。感じのよい純文学作品に読めた。
【「拝啓 風の神様」木村誠子】敗戦後のシベリア抑留者の体験談を老人から、過酷な運命を聴く。詩人・石原吉郎論はよく読むが、彼の体験を資料にして物語を構成するのはめずらしい。
【「鼻」池誠】市井の近所付き合いを材料に、隣の家のトイレが汲み取り式なために、臭気出し口からの臭いに閉口して、いろいろ手を尽くし、騒ぎになる。話の運びは面白いが、汲み取り式の便所の臭気がそれほど近所迷惑になるのか、そこがあまりぴんとこなかった。
【「因縁の玉――岡っ引き女房捕物帳」牧山雪華】よく調べて楽しく書き上げた時代小説のようだ。であるが、登場人物が平面的。読みやすいのが長所だが、銭形平次物を途中から読んでいるような古風な感じがした。謎のつくりに工夫があるが、ミステリーは、登場人物に興味を持たせることが前提にあるのではないか。
【「塀の向こう側」高畠寛】昭和の戦後30年代の庶民の生活エピソード。ここにも汲み取り式トイレの話がでてくる。完全に時代小説化した、考えようでは単純な生活ぶりが懐かしくさせる。それにしても、。時代考証的に読み取ってみても、この時代のことをよく記憶しているものだ。
【「産着」石村和彦】肉親愛の基本は母と子である。この作品は、息子と余命短い老いた母の関係を語る。それが自然な形で語られる。認知症になった母親への思い。自分の両親はすでに亡くなっているが、そのときを思い出して、ジンとするものがあった。良い散文詩に読めた。
【「歪む」奥畑信子】人間は関係の存在で、そのなかで悩む。その関係を経つことで、悩みは解消するはずなのであるが、分かっちゃいるけどやめられないのが、人の性質である。また、関係が持てないとそれが悩みになる。このなかで、絡みついてくる知り合いと断絶する話。いろいろ考えさせる。
【「自作を読む」木村誠子】自分の作品を読むといつでも面白い。自分の心の言葉への転換作業の様子が手に取るように再現できるからであろう。ここでは、病気になった姉との関係が作品を書く動機になっていることを明かしている。米国の研究家による普通人の「書きすぎてしまう病」と職業作家の「書けなくなる病」に関する研究所を読んだことがあるが、日本人とは精神構造が異なるのか、ぴんとこなかったことを憶えている。
【「お守りの言葉」善積健司】人間の表現する動機と退屈心の関係に触れている。自分も表現と退屈とは関係があると思っている。
【「連想コレクション」佐伯晋】日ごろのインスピレーションを数行にして記録している。「はじめに」ふと何かが心にうかぶ。まだ言葉にならずふわふわとしていて、一枚の素描のようなもの。――というようなものを並べてある。小説化だけが文学ではないことを示している。
発行所=〒545-0042大阪市阿倍野区丸山通2-4-10-203、高畠方。
紹介者=「詩人回廊」編集人・伊藤昭一。2019年12月25日

第66号
【「何もないところ」木村誠子】28歳の「ぼく」がナミビアに行く。そうする事情は、ぶんちゃんと呼ぶ父親か祖父筋とかの親族の意志によるのらしい。これは、作者が物語づくりに必要される設定上の仕組みであろうか。このなかでの読み物はナミビ砂漠とその周辺に関する描写である。湿潤な日本とはかけ離れた風景の雰囲気が心を明るくする。これは、実際がどうかというより、作者の想像力の表現によるものであろう。その表現のために、細く薄い物語の糸を埋め込んでいる。その小説の理屈に沿った仕掛けと、砂漠の組み合わせが巧いと感じ、良質の詩精神をみる。自分の考えでは、まとまりを重視しないで純文学に向かう方法もあるのではないか。砂漠を体験している「ぼく」精神をもっと深めた方がそれらしいような形になるような気がする。
【「そこからの眺め」高原あうち】「ぼく」の小学生時代の時、クラスに両手の小さい身体障害をもつ女性生徒ヒロコがいた。彼女がクラスでイジメを受けて、それを撃退する様子をみている。その彼女と30代にになって再開する。「ぼく」が副業的な落語家をしている時に、彼女が現れファンを増やしてくれる。彼女はバツイチで子持ちの立場に負けずに意欲的に生活している。その彼女が「私」に求婚してくるが、それを断る。そのことで、彼女に対するコンプレックスを意識する。話の運びと現代的な風俗を組み合わせて、気をそらさない話の運びである。話の構造もしっかりしている。はっきりした性格のヒロコと曖昧な「ぼく」その二人の人生態度が、会社の貸借対照表のようにピタリと気持ち良く合って、きちんと納まっている。面白いからいいか、と思う一方でドストエフスキーの「2+2が4であることが、人間的には納得できない」という発想が頭をよぎる。
【「蘇鉄の日」久里しえ】近年、女性の性的な被害が、表ざたになってきている。しかし、社会はその味方をするような動きは鈍い。抵抗運動の活発化の範囲を出ていない実情がある。しかし、ここでは佳子という少女が、変質者による性的な被害を受ける。誰にも話せず、祖母に打ち明けるが、誰にもいわずにいろと言われる。その隠されたトラウマの深さを表現する。おそらく、多く女性が何らかの形で経験してるが、語らずにいる一例なのであろう。書くモチベーションの強い作品である。家族の設定とその様子の表現力も優れている。仮に、この佳子が成人して社会でどれほど成功者としてスポットライトを浴びたとしても、その心の奥にこの事件は、トラウマの影を刻んでいるのであろう。おそらく多くの女性の琴線に触れるものがあるのではなかろうか。
【「死にたい病」住田真理子】裕福な家の一人娘の絵里の母親が、夫を亡くして病もちになり、79歳になって、夫と暮らしたマンションを売って、豊橋の高層マンションに住む。彼女の夫は義母と性格が合わず、絵里だけが母親の相手をする。母親には、娘だけが頼りなのであるが、絵里にすれば悪い物に取りつかれたような、気分になる。そうなった事情も語られる。なかで、母親の面倒を絵里が見るところの、典型的な状況の説明は、具体的で女性ならではの、きめ細かい描写で圧巻である。母親の死にたい、死にたいという口癖があっても、精神病ではないと診断されるというのも、皮肉な話である。
【「ヒナネコの唄」切塗よしお】小さな芸能プロダクションが、スター芸人などはいないのに、なんとか興業を続けている様子を描く物語。とにかく読んで面白い。しかもそうと長い話でエピソードも充分。納得させる読み物である。物足りないところもあるが、まとまっている。これほどの読み物でも、自費で発表するしかないの、と思ってしまう。しかし時代の環境を考えれば、そんな発想は古いものになるのであろう。
【「むらすすめ」奥畑信子】第4回藤本義一文学賞受賞作品とある。ほんのりとしたホームドラマ風の登場人物と筋の運びが、手際良く整理された文章できれいにすっきり描かれている。同系統の作風の普通の同人誌作品と異なるのが、どこかというと、話が横にそれずに問題提起がはっきりしているところであろう。普通多くあるのが、読み始めてこの作者が何を語ろうとしているのかが、しばらく読み続けてからでないとわからないところがある。だから、出だしで興味を失い読むのをやめてしまうのもある。この作品にはそれがない。このことは、微差のように見えるが、広い読者に向けてを考えれば、大差になる。余談だが、藤本義一には彼の全盛期、企業PR誌向けにコラム原稿依頼をした。放送局に入るので、取りにくれば良いというので、大阪の社員に行ってもらった。その社員のいうのには、注文をそこで訊いて、放送の合間に2枚の原稿をさらさらと書いて渡してくれたそうである。内容もオチがあって面白い。流石……と驚嘆した記憶がある。
【評論「関係性の文学―ポスト・モダン」高畠寛】これは10年程前に作者が「樹林」に書いたものをまとめたものだとある。これを読むと思想のテーマは時間軸が長く、特に昔の話だからどうのこうのということもなく読める。リオータールの説く、ポストモダンが、マルクス主義思想を含む「大きな物語」からの脱却をはかろうとする思想。ここでは、筆者がポール・オースターの作品を読み、構造主義を論じ、そのなかでポスト・モダンの文学的位置づけを論じている。モダン(近代)「主体性の文学」から、ポスト・モダン(現代)関係性の文学へ。真の主人公(主体性)の喪失。主人公にともなうスト―リー喪失。それにかわるものとして、偶然(関係性)への移行。などとして、関係性の文学としたもののようだ。そして日野啓三の小説「夢の島」の作風にその興味を収斂させていく。なるほど、なるほどと、その視点の面白さに引き込まれる。ジャーナリズムに操られる国民批判も生きている。こういうのは大いに頭の体操になる。
【評論「十四歳で見たものー林京子『祭りの場』より」向井幸】今、林京子の作品を読むには、どうすれば良いのか。存在を知っていて、そのうちに読もうと思っているうちに、簡単に読めなくなる環境になっている。本作で、非常に恐ろしい原爆被爆者のことを描いていて、その抜粋が大変迫力がある。高畠氏の評論でもそうだが、適切な引用の大切さを思い知らされた。
紹介者=「詩人回廊」編集人・伊藤昭一。《文芸同志会通信》