星灯 Seito

第8号
【「ココロ」渥美二郎】
 小説を書いているいる男と、その男に介護を受けてるいる師のことや、小説の名作にまつわる話などが脈絡なく語られる。自己表現の世界にひたった作品。前衛的表現で、あまり、客観性が感じられず、よくわからなかった。
【「ボクノラネコン」野川環】
 これは便利屋をしている若者の生活記。コロナの話も出てくるが、それは大した問題でないらしく、公園を破壊する仕事を頼まれるので、それをする。出来事は面白いが、書き方が面白くない。
【「弁天開帳ー志賀直哉『襖』の向こう側」島村輝】
 これは面白い評論である。志賀直哉の「襖」という初期短編があって、その詳細な解説が、一種の探偵小説的な味わいになっている。「襖」という作品は、私と友が山のある温泉宿に泊った際、友が10年前に箱根蘆の湯の紀伊国屋で自分が愛された話を語りだすところから始まるという。その時に、となりの部屋に泊っていた家族の女中の鈴という女性に、語り手が女性の好きな歌舞伎役者に似ているという理由で、好きになってしまい、彼女をよく眺めるので、彼女もそれを意識したという。或る晩、寝ている時に隣の襖が開いて、閉まったという。語り手の「僕」は、直観的に錫だと感じたが、その後何事もなく、しかとした事実はわからないで、過ぎた。それきり鈴と会うことがなかった。その翌年、歌舞伎座に行ったときに、隣の桝に宿で隣にいた家族にあったが、鈴の姿はなかった。奥さんと通路ですれ違ったが知らぬ顔をしていたという。その出来事の材料のひとつひとつの検討してしくと、それが当時は、表沙汰にしなかった同性愛者に関する物語である可能性を分析していくのである。志賀直哉の文章とその題材のさりげなさのなかに、深い意味が込められて作品になっているという説。まるで、カフカの短編について、作品より長い解説がつく事例のように、細部にわたる追求がある。そして、それを志賀直哉が「小説の神様」とされた所以に位置づけるのである。そうであるとすると、じつにもっともであるな、という説得力をもって読者に迫るものがある。作者の知見の広さに敬服。
【「一九一八年米騒動と戦後小説(下)-堀田善衛『夜の森』と城山三郎『鼠』をめぐって」大和田茂】
 それぞれの作家の作品は読んでいないので、大変面白く勉強になった。堀田のシベリアの話や、城山の鈴木商店の執筆の姿勢などが、よく伝わってくる。自分は、経済学で恐慌論を読んで、鈴木商店について調べたことがあるが、このような視点では知らないことばかりだ。
【「3・1独立運動100年の韓国への旅」金野文彦】
 現在、韓国政府の基本的な方針変更によって、日本でも感情的な作用が緊張感をもって受けとられている。そのなかで、人間的な交流を望む姿勢からの旅行記になっている。政府同士の感情操作とは別に、人間的な交流を大切にする思想が、言外に表れている。
【「津田青楓と河上肇ーー夢破れて山河あり」佐藤三郎】
 これも面白い。ここで、転向論が出てくるが、現代では、別に不思議な行為ではないのではないか。権力に負けてその場で従うのは、当然のことという意識になっているのではないか。
【「山小屋の文学散歩ー池波正太郎、井上ひさし、藤沢周平」本庄豊】
 作家として自分も書くという立場から、ベウトセラー作家の作品と人生を短く解説している。面白かった。
【「『健全なセックスワーク』はあり得るのか』紙屋高雪】
 変わった発想からの問題提起で、何のことかと思っていたら、マルクスやエンゲルスが考えた、夫婦家庭と結婚外などの関係の定義を現代の性風俗業にあてはめて考えたものであろうか? マルクスが個人と社会の意識の異なる状況では、その実際は予測不可能といったことを思いおこした。
 【「『日本文学史序説』をめぐってーー加藤周一論ノート(7)」北村隆志】
 この辺になると、国文学の分野であろうが、自分は無知なので、よくわからなかった。マルクス主義の上部・下部構造論が根底にあるらしいが、とにかく、海外に向けた日本文学の解説であるらしい。
紹介者=「詩人回廊」編集人・伊藤昭一。2020年8月 6日 (木)

第7号
【「NO COFFEE、NO LIFE.」渥美二郎】

 コーヒー好きのそれにまつわる事柄を、喫茶店や人生模様などをからませた話。会社内のコーヒー利用施設の味わいから、田舎の喫茶店の話。身体障害のある兄とコーヒーとの関係。コメダ通いの日々。そして、ある授業での教師がゴルフボールをいくつも口に入れての訓示など、直接は関係ない出来事を語り、やわらかな雰囲気の文体で、大切に日々を生きることを見つめる。筋のない感性による純文学的な表現と、持ち味の良さに感銘を受けた。
【「タダノボル」野川環】
 独身で独り暮らしの多田ノボルのアパートに、中年男の山田ヒデオが現れ、ひょんなことから住みだす。費用はノブル持ちである。倉庫のバイトをするノボルに、男はおにぎりを作って持たせてくれるが、これがなかなか旨い。男はパチンコで稼ぐといって、ノボルから千円を借りるが、勝負に勝ってはこない。そのうちに、五千円を借してやった後に、家に帰るといつも横になってテレビを観ているはずの彼がいない。その後の音信もない。ノボルは、その後の生活に寂しさを感じている。バイト先の倉庫で仕事をしている時に、小学生が表の通りを通るを、可愛く感じるというフレーズを複数入れている。それが、時代としての平和感を醸し出している。生活感をのみを浮き彫りにする、視点の良さに個性があって、文章力に、上質な才気を感じさせる。
 小特集・シベリア出兵・米騒動100年―というもので、以下の2編がある。
【「『シベリア出兵100年の旅』-ハバロフク・ウラジオストクー」金野文彦】は、作者が幾度目かのシベリアに今年4月に単独行での現地の様子が少しでもわかるのは、有意義であろう。
【「1918年米騒動と戦後小説―堀田善衛『夜の森』と城山三郎『鼠』をめぐって(上)」大和田茂】タイトルを読んでも、どのような関係があるのか分からなかったが、堀田善衛が極限的なリアルズムで、黒島伝治を超える残酷なシベリア兵生活を作品「夜の森」にしていたことも知らなかったので、驚いた。いずれにしても、日本の外交関係とその相手国への見方が、どのメディアも忖度報道ばかりである。余りにも相手国との歴史的な関係を無視し、目先のことだけを簡便に報道する。韓国もロシアも、それなりの自国の立場を主張する根拠があるのに、あまりにも感情的だけに関係を利用している。特に安倍政権は、日本の独立性をないがしろにし、米国従属国への強化の情報操作が目立つ。その意味で、他国の事実を知ることは重要であろう。
【「宮沢賢治の理想郷」本庄豊】
 宮沢賢治の作品よりも、解説本でその中身を知ることの多い自分だが、これもまた有益な紹介である。知り合いに、調理師がいて経営のノウハウのことが書いてあると思い「注文の多い料理店」を読んでしまったという。それも素晴らしいことだ。この作品を読めばそれもないかも。しかし、人生は寿命の長さでなく、その中身だとしみじみ思う。最近の幼児の死の出来事を知るたびに、この宇宙は大いなる悲しみを包含しているのだなと、宮沢賢治の作品を想い起こす。小さな短い命も、その使命を果たしたのだ、と思いたい。
【エッセイ「良寛さんの地震見舞い」さくむら聖いち】
 良寛さん(1758~1831)は1828年の三条地震の時に。71歳でそれを体験したという。これを読んで、自分が東日本大震災を体験したのが70歳だったのではないか、と思った。このように、身近なことを連想させる書き出しで、優れている。11月12日の朝8時にマグニチュード6.9というから、当時の木造家屋では壊れたのもあれば、火事でほとんど焼失したとある。地震で子供を亡くした知人の酒屋、山田杜皐ところに、お見舞いの手紙を書いたという。手紙の写真もある。達筆であるが、昔の人の読み書きの能力はすごい。この点では、世界第一の識字力の民衆であったろう。良寛さんは、山田酒屋の受難心境を熟知しながら手紙のなかに「災難に逢う時節には災難に逢うが良く候、死ぬ時節には死ぬがよし候」と言う言葉の入っていたという。
 これはお互いが、友人としてよく知り合っていたからこそのもの、という。東日本大震災の時に、この語を使った人がいたらしく、突き放した冷たい言葉、という批判が遭ったそうである。それが、時代というものか。本来親しくない人の間でも、どうしようもない状況において、この世の全存在が、宇宙的な活動の中に投げ込まれている、という実感をもつことで、生死の狭間を越えた世界で、悲しむ力の苦しさから脱け出すものを感じさせるのであるが……。
【「『文学=史』の試みー志賀直哉『真鶴』をめぐって」島村輝】
 志賀直哉といえば、自分のなかの人間的な感覚を忠実に文章化することで、小説の神様といわれた時代があった。自分は真鶴や根府川付近一帯が好きで、幾度が文学仲間といっている。釣り宿に泊ったこともある。志賀直哉の『真鶴』は、ここで概要をしっても、読んだ記憶がない。ただ、本評論では、そこから志賀直哉の時代の日本が侵略した「東アジア関係史」へと関連が見事に結び付けられる。あとがきによると、中国での講演されたもの日本語版らしい。一般論と視点の異なる文学論もあるということで、貴重な資料であろう。
【「憲法と戦後改革は町内会をどうデザインしたか」紙屋高雪】
 これは、現代性に富んだ問いかけである。現在、全国的に地域では通常の町内会とマンション自治会、管理組合など、さまざまな形態の共同体が混在して、生活を営んでいる。もともとは地域を統治する自治会は、敗戦後の米軍から太平洋戦争で銃後の兵士としての、洗脳と団結力を維持する組織として、危険視された部分があるらしい。当会員の小野友貴枝氏は「社協を問う」(文芸社)を執筆しているが、この社会福祉協議会というのは、GHQが創設を命じたのだという。マッカーサーは米国の寄付という社会貢献の思想を定着させようと、お上意識の強い自治会の対抗組織を作ろうとしたらしい、というのが、この本を読んだ自分の解釈である。草の根的で、自発的な発想の活動組織を作ろうとしたのであろう。この評論では、お上である自治体と町内会の癒着とお付き合い仲間意識から、自らの発想での町内会運営を主張している。
 現状では、町内会とマンション自治会の連携が課題になり、また「社協」は寄付が主体であるはずが、町内会に会費負担を依存したり、そのなかで町内会費を「社給」の寄付にすることに異論を唱える住民もいて、自治体も企業に寄付を依頼するなど、さまざまな兆候がでているようだ。
【「1968年とマルクス主義―加藤周一論ノート(6)」北村隆志】
 自分は経済学批判としてのマル・エン「資本論」を糸口に、宇野理論やシュンペイターを学んだ。当時の大学入学時には、近代経済学科がなかった。卒業するころに、就職には近代経済学(ケインズ理論)が必要と科目がつくられた。文学とマルクス主義を結び付けたの、バクーニンの無政府主義的理論であった。独裁政治に利用される共産主義理論しか見ていない。そうした意味で、正統的なマルクス主義思想と文学思想の関係を知るのには、この加藤周一論と言うのは、大変ためになる。労作である。ただ、社会の現実と思想でみる文学論とは、距離があるので、多くの支持者を集める理由なども知れたらよかった。《ご参考「地球座サイト;覇権国家は強奪の歴史!?箒川兵庫助》
紹介者=「詩人回廊」編集人・伊藤昭一