相模文芸

第38号
【「ジュリアン」竹内魚乱】
 ベトナム戦争時代の青春物語。「ジュリアン」というスタンダールの「赤と黒」の主人公ジュリアン・ソレルにちなんだ名の喫茶店でアルバイトをした時の経験談。自分もその時代に就職したばかりで、毎日、北爆のニュースを見て、過ごしていた。主人公はノンポリ学生のようで、こんな生活もあったのだ、と理解できる。
【「漢詩ことはじめ…薔薇夫人に捧ぐ」雲鳥】
 漢詩の専門家である庄三の近所に、薔薇園とも言えるほどの花壇をもつ屋敷がある。唐木家である。そこには40代の唐木とその妻、車いすの娘がいる。庄三は、妻のことを薔薇夫人と称して語る。車いすの娘は眼は薔薇の話すのが聞こえるという特技をもつ。舞台装置と、人物配置が文学的で良いが、話の運びが漢詩人のせいか、全体の流れは、小説技術の巧さに欠ける。ただ、現在の文学には、詩編や文芸批評を入れたりする試みもあり、実験的な意義は感じられる。
【「泡沫」えびな銀子】
 結羽という幻の女性への想いと、現代化による昔ながらの町の佇まいの変わりゆく風景を嘆く掌編。
【「露しぐれ(二)-殺生石異聞捨遺」原當眞】
 連載だが、野ざらしを供養したことから、霊との交流が始まる。日本の伝統的な話を活用している。文章も文句なし。こういう書き手が市中に存在するところが、日本文学の層の厚みを感じさせる。
【「私説『実感的人生論』」登芳久】
 本号では、菊池寛から松本清張、久保田万太郎、細井広沢、死に化粧の話まで多岐にわたる。前号では、「全体小説を読む」として、野間広「青年の環」、大西巨人の「神聖喜劇」などの読破に触れていた。自分も、野間宏の全体小説論には傾倒し「真空地帯」や「青年の環」は読んでいたのでディレッタンチズムとしても興味深かった。
【「続・高齢者が日常で出あう危険」外狩雅巳】
 前号で、作者がなりすまし詐欺と知りつつ、その対応を積極的に行うという体験談の続編である。自分が詐欺師にどう対応したかを、意識的に記録したものだが、誰でも話に乗れるデータ―ベース的な豊富さで、文芸交流会でも議論が盛んだった。≪参照:「されど老春の日々」(外狩雅巳)を交流会で議論 》。自分が考えるに、かつてアナーキズム詩人の小野十三郎が、現実を示して、問題的とするという発想があった。その意味で、自分は、こうした詐欺師たちは、高齢者の欲望を作りだしたことの証明の事例としてみる。物を買うためなどの欲望に金を使わないのであるが、もっている金を増やすためや、孫や親族のためには、お金を使いたいという欲望をかきたてることに成功している事実を知った。また、事実としては、電話を取り外してしまえば、問題は起きない。しかし、それをしないということは、電話をかけてくる人を待っているということ。詐欺師にすれば、それは騙される機会を待っていることにもなるのだ。
紹介者=「詩人回廊」北一郎。